ブッダの思想 ー智慧による、苦の滅尽ー

                      
桝谷情報事務所  代表 桝谷曜至(ますや てるよし) 

  公開日:2022年4月11日
  文章の最終修正日:2025年3月20日







 誠に僭越ながら、私がブッダの思想の核心を探究して得たところの知識等について述べさせていただきます。この情報は、学術的なものではございませんし、また、強靭な学力に裏付けられたものでもございませんが、その根幹において、必ずや、読者の皆様のご利益となるものであると確信いたしております。
 ではまず最初に、
南アジアの地理、ブッダ が活動した時代までのその地域の歴史、ブッダの経歴、仏教における初期経典の成り立ち等について簡単な説明をさせていただきたいと思います。 
 南アジアとは、ユーラシア大陸における、ヒマラヤ山脈(※1)から南の地域のことを指します。
 その地域はインド半島
(※2)を中心として、北は、ヒマラヤ山脈とそこから北西にのびるカラコルム山脈等からなり、北から中部にかけては、ガンジス川(※3)とインダス川(※4)が形成するヒンドスタン平原等からなり、中部から南部にかけては、東ガーツ山脈と西ガーツ山脈の間に広がるデカン高原(※5)等からなっています。
 また、インド半島の南東海上にはセイロン島が、南西沖には大小1200余りの島々が南東に800キロ以上にわたって連なるモルディブ諸島があります。





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 ※1.  アフリカ大陸北部から、ヨーロッパ南部、西アジア、中央アジア南部、南アジア北部を通って、
    東南アジア西部まで続く新期造山帯である、アルプス=ヒマラヤ造山帯の一部となる、中国と南ア
    ジアとの境に位置する山脈のことです。そこには、チベット語でチョモランマ、ネパール語でサガ
    ルマータと呼ばれる、標高8848メートル、世界最高峰のエベレスト山等がそびえています。

 ※2.  インド洋に逆三角形の形に突き出している半島であり、北にヒマラヤ山脈、西にアラビア海、東
    にベンガル湾があります。

 ※3.  ヒマラヤ山脈西部を水源とし、東に流れてベンガル湾に注いでいます。全長は約2500キロメ
    ートルあります。

 ※4.  ヒマラヤ山脈の北に広がっており、標高が4000メートル以上あるチベット高原の西部を水源
    とし、主にパキスタン国内を南に流れてアラビア海に注いでいます。全長は3180キロメートル
    あります。
 
※5.  平均標高が約600メートルの平坦な高原です。

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 この地域の気候は多様であり
(※6)、モンスーンと呼ばれる季節風が雨季と乾季を生み出して地域ごとに降水量の差を作り出しています。
 5月から10月にかけての南西モンスーン
(※7)は、最初、西ガーツ山脈にぶつかってその西側に多くの雨を降らせ(※8)、次いで、ベンガル湾で再び多大な水分を含んだ後ヒマラヤ山脈にぶつかって南アジア北東部に大量の雨を降らせます(※9)
 西ガーツ山脈と東ガーツ山脈に挟まれたデカン高原は、南西モンスーンの雨雲も、11月から4月にかけての北東モンスーン
(※10)の雨雲も二つの山脈によって遮られるため、年間を通して雨が少なくなります。
 パキスタンを中心とした南アジア西部は、南西モンスーンがヒンドスタン平原を北上するうちに勢力を弱めるため、年間を通して降水量が少なく乾燥しています。(※11)
 なお、
ヒンドスタン平原の西側にあるインドの首都デリーの暑季の最高気温は40度に達します。





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 ※6.  熱帯雨林気候・熱帯モンスーン気候・サバナ気候・ステップ気候・砂漠気候・温暖冬季少雨気
    候・高山気候からなります。
 ※7.  インド洋上で多大な水分を含んだ湿った気流であり、山脈や丘陵を越えるときに風上側に多量の
    雨を降らせることによって雨季をもたらします。
 ※8.  インド半島先端西側に位置するマラバル海岸地方の年間降水量は2500ミリ以上となります。
 ※9.  インドのウェストベンガル州ダージリンでの年間降水量は、これも2500ミリ以上となりま
     す。
 ※10.  ユーラシア大陸の内陸部に発達した高気圧から、乾いた風が吹くことによって乾季をもたらし
     ます。
 ※11.  特に、パキスタンとインドの国境付近に広がるタール砂漠では他の要因も重なって年間降水量
     が300ミリ以下となります。

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 この地域の歴史は、以下の様なものとなります。
 BC2300年〜BC1700年、インダス川流域に、モヘンジョ=ダロ、ハラッパーの遺跡に代表されるインダス文明が栄えました。そこにおける都市は、都市計画に基づいて、道路・下水設備・公共施設等が整備されており、住民は、麦類を栽培するとともに水牛・羊・象等を飼育し、青銅器を作製していました。またそこでは、インダス文字(※12)を刻んだ、石製の印章が用いられていました。(※13)
 BC1500年頃、遊牧民であるアーリア人の一部がインダス川上流のパンジャーブ地方に侵入し、先住民を征服・奴隷化して半農半牧の定住生活を行いました。彼らは、さらにBC1000年頃にはガンジス川中流域に進出して先住民と混血し、農耕生活を発展させて、BC800年頃までに多くの都市国家を形づくりました(※14)。
 アーリア人は、神祭りに関する聖典である『ヴェーダ』を編纂(へんさん)し、口頭で伝承していましたが(※15)、その『ヴェーダ』に基(もと)づくアーリア人の信仰を一般にバラモン教(※16)といいます。
 バラモン教は、祭官が祭祀(さいし)を執り行うことによって、子孫繁栄や家畜増殖、天界への再生などの願望を実現しようとしましたが、その社会においては、ヴァルナという身分制度(※17)が形成され、人々は司祭階級であり最上位の支配者であるバラモン、王侯・武士階級であるクシャトリヤ、一般庶民階級であり農民・商工業者からなるヴァイシャ、奴隷階級であり主として被征服民からなるシュードラに区別されました。そして、上位三姓の祭官、武人、庶民が「アーリア」と呼ばれました。
 バラモン教はやがて、バラモン階級が自らの地位を維持するために、祭祀儀式を複雑化させた形式重視の祭祀万能主義へと傾いていきましたが、BC7世紀頃、バラモン階級の内部から、その祭祀万能主義をよしとせず哲学的に世界を探求しようとする人々が現れ『ウパニシャッド』が作り出されました。その思想は「生滅(しょうめつ)する生き物の根底には不変の実体である『アートマン』があり、それは、世界の根本原理である『ブラフマン)』と一体のものである(※18)。『アートマン』はカルマ(※19)によって輪廻(りんね)(※20)を繰り返すが、人は修行(※21)により『梵我一如』を自覚した時、そこから解脱(げだつ)(※22)することが出来る。」というものでした。この思想はインド思想の源となり、やがて仏教やジャイナ教へと受け継がれていきました。
 BC600年頃、アーリア人はガンジス川をさらに下って、その中下流域にまで進出しましたが、そこには豊かな土地があり、そのために、農業生産はさらに増え、商工業が盛んとなり、貨幣経済が発達しました。やがて都市国家は国王の支配する大国に併合(へいごう)され、その結果、BC6世紀頃には十六大国と呼ばれる大国が出現しました。その時期は同時に、ヴァルナ的農村社会から、都市社会への大きな転換期でもありました。
 BC5世紀、十六大国の一つであるマガダ国を中心に統一が進むと、いよいよクシャトリヤやヴァイシャの力が強まってバラモンの権威は揺らぎ、彼らが支配する社会秩序と、その祭祀万能主義に対する批判が勢いを増しました。このような状況のなかに現れたのが、バラモン教の伝統にとらわれない、シュラーマナといわれる自由思想家の人々であり、彼らは、新しい思想を展開していきました。初期仏典であるパーリ仏典(※23)や阿含経典(あごんきょうてん)(※24)には、六師外道(ろくしげどう)として、当時の六人の思想家についての記述がありますが、以下に、それぞれの思想家の思想の内容を述べさせていただきたいと思います。





プーラナ・カッサパ・・・道徳否定論者

 「生き物を殺しても、他人の物を盗んでも、他人の妻と性交しても、嘘をついても、罪悪を犯したことにはならないし、それによって、罪悪の生ずることもなく、罪悪の果報(かほう)があることもない。また、布施(ふせ)をしても、祭祀を営んでも、強い言葉で教化されても、戒めを守っても、真実を語っても、それによって、功徳(くどく)の生ずることもなく、功徳の果報があることもない。」と説きました。
 一切の行状は、無意義・無功用であると否定し、その果報もまた否定しました。



マッカリ・ゴーサーラ・・・宿命論者(しゅくめいろんしゃ)
 
 アージーヴィカ教(※25)の代表的人物とされます。
 「人間の染汚(せんお)(※26)または清浄には、原因も条件もない。人間は無因無縁にして染汚または清浄である。人間には、作(な)すところもなく、また、その力も、精進(しょうじん)も、体力も、気力もない。すべての生き物は、ニヤティ(※27)によって、八百四十万劫(はっぴゃくよんじゅうまんこう)(※28)の間、愚かな者も、賢い者も、輪廻しつつ苦楽を受け、終に苦の終滅に到る。それは、投げられた糸玉が、捲(ま)かれた糸の終わるまで解けていくが如(ごと)くである。様々な修行によって、業を滅尽(めつじん)するというわけにはいかない。定められた苦楽は、消長・増減することはない。」と説きました。



アジタ・ケーサカンバリン・・・唯物論者(ゆいぶつろんしゃ)

 「布施も、供儀も、祭祀も意味がない。善悪の業の結果もないし、死後の世界もない。人間は四大要素である地・水・火・風によって成っており、死ねば、それぞれの要素は散り散りになる。死後の生存は、事実無根の妄説である。どのような者も、命が終わって断滅(だんめつ)すれば、死後には何もなくなる。故(ゆえ)に、現世の快楽を味わうことを追求するべきである。」と説きました。
 この説は、かの時代において、ローカーヤタ(※29)と呼ばれました。また、初期仏典は、この説を「断滅論」と称しました。



パクダ・カッチャーヤナ・・・常住論者(じょうじゅうろんしゃ)

 地・水・火・風の四大要素に苦・楽・霊魂を加えた七つの要素を主張しました。
 「これらの七要素は、作られたものでも、創造されたものでもない。これらは、何ものも生産せず、常住にして不動であり、変化せず、相互に侵すこともない。また、互いに、楽にも、苦にも、その両者を合わせたものにも導くことはない。それ故に、これらを殺す者も、聞く者も、識る者もない。もし、剣によって人の頭を断っても、何人の命を奪うこともできない。それは七要素の隙間に剣を入れただけである。」と説きました。
 初期仏典は、この説を「常見(じょうけん)」と称しました。



サンジャヤ・ベーラッティプッタ・・・不可知論者(ふかちろんしゃ)

 「前世・来世はあるのか、前世・来世はないのか、前世・来世はあるし、またないのか、前世・来世はあるのでもないし、ないのでもないのか、化生(けしょう)(※30)はあるのか、化生はないのか、化生はあるし、またないのか、化生はあるのでもないし、ないのでもないのか、善悪業の異熟果(いじゅくか)(※31)はあるのか、善悪業の異熟果はないのか、善悪業の異熟果はあるし、またないのか、善悪業の異熟果はあるのでもないし、ないのでもないのか、如来(にょらい)(※32)は死後存在するのか、如来は死後存在しないのか、如来は死後存在するし、また存在しないのか、如来は死後存在するのでもないし、存在しないのでもないのかといった問いに対して、わたしは、そうとも考えないし、そうでないとも考えないし、その他であるとも考えないし、そうでないのではないとも考えない。」といい、形而上的な事柄は、人間には知ることができないとしました。



ニガンタ・ナータプッタ
 ジャイナ教の開祖ヴァルダマーナのことです。ニガンタ・ナータプッタとは、「ナータ族出身のニガンタ派の人」という意味です。(※33)
 ジャイナ教は、カルマによって引き起こされる輪廻転生からの解脱を目標とし、その教えは、まとめると以下のようになります。
 世界は、上下が広がり中央部が狭いという構造になっており、そこは、神々が居住する上位の世界・地上のある中央部の世界・地獄に堕ちた者達がいる下位の世界に別れています。世界(宇宙)は、霊魂・非霊魂である運動の条件・静止の条件・虚空・物質という五つの実存体から構成されており、世界の外には非世界が存在します。世界と非世界を合わせたものが全宇宙であり自然界です(※34)。時間の回転は永遠であり、世界の終末というものは認めません。また、宇宙の創造主のようなものも存在しないとします(※35)。
 霊魂・非霊魂・業の流入・束縛・防ぎ守ること・止滅・解脱の七項目を「真実」と呼び、これらを正しく知ることが解脱に至る道とします。霊魂は動物のみならず地・水・火・風・植物にも宿っています。人が身体すなわち身(しん)・言葉すなわち口(く)・心すなわち意(い)を使うと物質が引き寄せられて流入し霊魂に付着します、そしてそれがさらに霊魂に浸透したとき、その物質が業と呼ばれます。業は「業の身体」を形成して霊魂の本性をくらまし束縛します。霊魂はそのことによって輪廻転生をします。それ故に、すでに浸透している業を滅ぼすと同時に新たな業の流入を防止すれば、微細な物質は霊魂から払い落されて(※36)、霊魂は本来の清浄な性質を現し解脱します。解脱した霊魂は宇宙の最上の場所(※37)へ自然と移行します。この境地に到達した者はただ死を待つのみであり、身体の壊滅(かいめつ)とともに完全な解脱が完成します(※38)。
 ジャイナ教の出家修行者は、解脱するために「五大誓戒(ごだいせいかい)」を遵守(じゅんしゅ)し「苦行」を行います。「五大誓戒」とは、「非殺生(ひせっしょう)」、「非妄語(ひもうご)」、「非与取(ひよしゅ)」、「非淫(ひいん)」、「非所有(ひしょゆう)」の五つのことを指します。「非殺生」とは生き物を殺さないことです。全ての生き物は生命が愛おしいものであるし、あらゆるものに霊魂が宿っているからには、輪廻転生の中でお互いがどのような関係にあったのか、またこれから先どのような関係になるのかわかりません。そして自分自身もまたかつて様々な生き物であったであろうし、この先、業によって様々な生き物になるであろうと推測されます。つまり、生き物を殺すということは、自分の親しい人、愛しい人、大切な人を殺すということでありまた自分自身を殺すということとなります。ジャイナ教の慈悲行は徹底していて、肉・卵・根菜を食さず(※39)、空気中の虫を吸い込んで殺さないためにマスクをし、水中の生き物を殺さないために水を水漉し器で漉して飲み、自身の動作で小さな虫などを殺さないために、それらを払い除ける小さい箒(ほうき)のような塵払(ちりはら)いを持ちます。また、信者は生き物を害する恐れのある職業にはつきません。「非妄語」とは、粗い言葉を使ったり、嘘をついたりしないことです。「非与取」とは、与えられていないものを取らないこと、盗みをしないことです。「非淫」とは、身体でも、言葉でも、心でも性行為をしないことです。「非所有」とは、何ものも所有しないことであり、初期の修行者たちは衣服を身につけずに修行していたそうです(※40)。「苦行」は、灼熱(しゃくねつ)の太陽等に身をさらす等の修行を行います。





 このように、当時のインドにおいては、自由思想家の人々が活発に活動していたのですが、ブッダもまた、そのような思想家の一人でした。





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 ※12.  象形文字。現在、未解読です。
 ※13.  インダス文明を築いたのは、今現在インドの南部・東部に住んでいる、ドラヴィダ人であると
     されています。
 ※14.  BC1000年〜BC800年ごろ、鉄器の使用が始まって農業生産が発達し、それにともなっ
     て商工業も発達しました。
 ※15.  文字はまだ存在しておらず、「ヴェーダ」はサンスクリット語で伝承されました。
 ※16.  多神教。バラモン教はやがて各地の土着信仰と融合し、4世紀頃ヒンドゥー教が確立します。
 ※17.  後世のカースト制度の原形となります。
 ※18.  『ウパニシャッド』は日本語で奥義書と訳されます。また、「アートマン」を我(が)、「ブ
      ラフマン」を梵(ぼん)と言って、両者が一体であることを『梵我一如(ぼんがいちにょ)』
      と言います。
 ※19.  業(ごう)、すなわち、生きている時の行為のことです。
 ※20.  生まれ変わりのことです。
 ※21.  苦行(くぎょう)やヨーガ等のことです。
 ※22.  輪廻から脱して自由になることです。
 ※23.  スリランカの上座部大寺派(じょうざぶだいじは)の仏典のことを指します。
 ※24.  漢訳の仏典です。阿含(あごん)とはサンスクリット語で「伝来」を意味するアーガマを音写
     した言葉です。四世紀の終わりから五世紀の前半にかけて訳出され、長(じょう)阿含経・中
     (ちゅう)阿含経・雑(ぞう)阿含経・増一(ぞういち)阿含経の四部から成り、それぞれが、
     パーリ仏典の経蔵(きょうぞう)に対応します。
 ※25.  仏教・ジャイナ教と同じ時期に誕生した宗教です。漢訳仏典では邪命外道(じゃみょうげど
     う)と呼ばれ、一時期は仏教・ジャイナ教・バラモン教と並ぶ勢力を持っていました。出家者は
     放浪・乞食(こつじき)し、苦行を行い、裸形で生活しました。現在は消滅しています。
 ※26.  煩悩(ぼんのう)で清浄な心を汚すことです。
 ※27.  宿命のことです。
 ※28.  とてつもなく長い年月のことです。
 ※29.  順世派と言います。
 ※30.  天界や地獄の生類のことです。
 ※31.  善業・悪業を原因としてもたらされた、楽・苦という結果のことです。
 ※32.  修行完成者のことです。
 ※33.  ヴァルダマーナは、「偉大な英雄、大勇者」という意味の尊称であるマハーヴィーラとも呼ば
     れます。
 ※34.  虚空は、世界と非世界を包括(ほうかつ)しています。
 ※35.  ジャイナ教は「無神論」です。
 ※36,  これをジャイナ教では止滅と称します。
 ※37.  完成者達の住処のことです。
 ※38.  この場合、ジャイナ教では餓死をするのが理想とされます。
 ※39.  根菜を食べないのは、根を引き抜くときに根の周りにいる生き物が殺されるからです。
 ※40.  ジャイナ教は一世紀頃、白衣(びゃくえ)を纏(まと)うことを許した白衣派と、従来通り衣
     を纏うことを許さない空衣派(くうえは)に分裂しました。

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 ブッダとは、「目覚めた者」という意味の言葉です。
 初期仏典によれば、ブッダ(BC463年頃~BC383年頃)は、ヒマラヤ山麓の釈迦族(しゃかぞく)の小国において、スッドーダナ王とマーヤー妃の間に生まれました。やがて結婚し、ラーフラという名の男の子をもうけましたが、その生活の中で「なぜわたしは、自らが生き、老い、病み、死に、嘆(なげ)き、穢(けが)れた存在であるのにもかかわらず、生き、老い、病み、死に、嘆き、穢れた存在である妻子・僕婢(ぼくひ)(※41)・牛馬・金銀等(※42)を求めるのか。わたしは、生き、老い、病み、死に、嘆き、穢れたることにおいてよく禍(わざわ)いを知り、もはや迷いの生・老・病・死・嘆き・穢れのない涅槃(ねはん)(※43)を求めたらどうであろうか。」という様に考えました。
 そして太子は、いまだ年若い29歳の青年でありながら、父母が悲しむうちに、出家の身となりました。そして善きことを探ねて、アーラーラ・カーラーマという人物のところへ到り、何ものも存在しないという、無所有(むしょう)の境地に至る禅定(ぜんじょう)(※44)を学びました。菩薩(ぼさつ)(※45)は、その境地を速やかに習得しましたが、この教えは離貪(りとん)等にも導かないし、涅槃等にも資するところがないと思い、アーラーラ・カーラーマの許(もと)を去りました。
 次いで菩薩は、ウッダカ・ラーマプッタという人物のところに到り、表象(ひょうしょう)(※46)があるのでもなければ表象がないのでもないという、非想非非想(ひそうひひそう)の境地に至る禅定を学びました。菩薩は、その境地をも速やかに習得しましたが、この教えもまた離貪等にも導かないし、涅槃等にも資するところがないと思い、ウッダカ・ラーマプッタの許をも去りました。そこで菩薩は苦行に入り、五人の出家の行者と共に6年間修行しました。しかし、その苦行もまた正覚(しょうがく)(※47)には資さないと思い、その行為を中断しました。
 菩薩は、再び善きことを探ねて、マガダ国のウルヴェーラーのセーラーニ村に入りました。そこは素晴らしい地域で、修行をするのに大変適していました。
 菩薩は、ここは努力するのに良い土地であると思い、菩提樹(ぼだいじゅ)の下に座り、修行を始めました。そして、35歳の時に悟りを開き、ブッダとなりました。(※48)
 悟りを開いた後に、ブッダにこのような思いが生じました。「わたしが悟ったこの真理は、甚(はなは)だ深くて、悟るのが難しい。微妙であって思考の領域を超え、優れた知者のみがよく悟り知ることのできるところである。しかし、この世間の人々は、ただ欲望に踊るばかりである。そのような人々には、この真理は、到底見極めることが難しい。この真理とは、
すべては互いに密接な関係にあり、縁(えん)(※49)があって起こるということであり、すべての考え・判断をやめ、すべての拠り所を捨て去れば、渇愛(かつあい)(※50)が尽き、貪りを離れ、涅槃に至るということである。わたしがこの教えを説いても、人々が理解しなかったならば、わたしはただ疲労するだけであろう。」と。
 初期仏典においては、その時、ブッダの心を知った梵天(ぼんてん)(※51)がブッダの前に現れ、教えを説くことを勧め、且(か)つ、請い願ったとあります(※52)。梵天の勧請を知ったブッダは、生きとし生けるものへの哀れみの気持ちから仏眼(ぶつげん)(※53)を持って世間を眺(なが)め、様々な性質・性格の人がいるのを見ました。そして、教えを説くことを決意しました。ブッダ は最初、アーラーラ・カーラーマのために教えを説こうと考えましたが、天神(てんじん)が現れ、彼の亡くなったことを告げました。次いで、ウッダカ・ラーマプッタのために教えを説こうと考えましたが、これもまた天神が現れ、彼の亡くなったことを告げました。次いでブッダは、自身が苦行をしていた時に、色々と世話をしてくれた五人の修行者のことを思い出し、彼らのために教えを説いてみようと考えました。そして天眼(てんげん)(※54)をもって、五人の修行者が、バーラーナシーのイシパタナ・ミガダーヤにいることを知り、その地に向かって遊行(ゆぎょう)(※55)に出発しました。(※56)
 その道中に、アージーヴィカ教のウパカという者が、美しく清らかなブッダの姿を見て、誰を師とするのか等と質問しました。ブッダはそれに偈(げ)、すなわち、詩句(しく)をもって答え、「われは正等覚者(しょうとうかくしゃ)(※57)である、師もなく等しき者もない。いま法輪を転ぜん(※58)とカーシの都にゆく。」という旨(むね)を伝えました。するとウパカは、「その通りならば、そなたは無辺(むへん)の勝者というに値するであろう。」という様にいいました。ブッダは再び偈をもって、「煩悩(ぼんのう)(※59)を滅尽(めつじん)すれば、われと同じ勝者である、諸々の悪法に勝てるが故に、われは勝者である。」という旨を伝えました。するとウパカは、「友よ、あるいはそうかもしれない。」といって、頭を振りながら、別の道をとって去っていきました。 
 ブッダが、イシパタナ・ミガダーヤにいたり、五人の修行者に近づくと、彼らは、遠くからブッダが来るのを見て、「あちらから来るのは、堕落した沙門(しゃもん)(※60)ゴータマ(※61)である。彼には挨拶等はすまい、しかし、坐る場所だけは設けてやろう。」という様に互いに約しました。ところが、実際にブッダが近づくと、彼らは、その衣鉢(いはつ)を受け取ったり、坐に案内したり、足を洗う水を用意したり、友よといって話しかけたりしました。
 ブッダは、彼らに、「修行者達よ、如来(にょらい)(※62)を呼ぶのに友の語を用いてはならない。わたしは正等覚者である。不死は得られたのである。わたしは教えを説こう。」という様にいいました。
 すると彼ら五人の修行者は、ブッダに対し、「そなたは、あの苦行をもってしても、悟りを開くことができなかった。それなのに、そなたは、よく修行に勤めることを捨て、贅沢な生活へと堕落したのに、どうして悟りを開くことができようか。」という様にいいました。
 三度までも五人の修行者が拒絶するので、ブッダは彼らに対し、「そなたたちは、かつてわたしの顔がこのように輝いているのを見たことがあるか。」という様にいいました。すると彼らは、「いいえ、尊い人よ。」という様に答えました。そしてブッダは、彼らに教えを説くことができるようになりました。
 ブッダが、二人の比丘(びく)(※63)たちに教えている時には、三人の比丘たちが托鉢(たくはつ)(※64)に行き、三人の比丘たちに教えている時には、二人の比丘たちが托鉢に行って、その行乞(ぎょうこつ)によって得たるところをもって、六人が生活しました。
 その時ブッダは、「中道(ちゅうどう)(※65)」・「(四つの聖なる真理である)四聖諦(ししょうたい)」等の教えを説いたと考えられますが、まず、五比丘の中の一人、コーンダンニャが悟りを開きました。
 その時、ブッダは、たいへん喜んで、
 「まことにコーンダンニャは悟った。まことにコーンダンニャは悟った。」といったと伝えられています。
 かくして、彼ら五人の比丘たちは、ブッダの教えによって、その全員が悟りを開きました。
 ブッダは80歳になるまでの45年間、ガンジス川中流域を遊行しながら教えを説き続けました。その間、マガダ国のビンビサーラ王やコーサラ国の大商人スダッタ、バラモン教のカッサパ3兄弟などをはじめとしてブッダの教えに帰依(きえ)(※66)する者は多く、また、サーリプッタやモッガラーナなどの優れた弟子にも恵まれました。
 80歳の時の最後の旅の途上、ヴェールヴァナ村で雨期の定住である雨安居(うあんご)に入るとブッダは病にかかりました。やがて回復しましたが、その時、侍者(じしゃ)のアーナンダはブッダに、「世尊の病まれた時には、わたしは、どうしてよいかわからなくなりました。しかし、世尊は、比丘僧伽(びくそうぎゃ)(※67)のことについて、何らかのお言葉があるまではけっして逝かれるはずはあるまいと思いました。」という旨を伝えました。しかし、それに対してブッダは、「いま比丘僧伽がわたしに何を期待するのか。わたしは、内外の区別なく教えを説いた。わたしには、教師の握拳(きょうしのにぎりこぶし)(※68)はない。わたしは、比丘僧伽を統べようとも、比丘僧伽はわたしの指導のもとにあるとも考えていない。わたしには比丘僧伽について何のいうべきこともない。わたしは老い衰えた。わたしの身体は革紐の補助によって動いているようなものである。わたしは、何事も考えず、何ものも感じないで、無相の心三昧(ざんまい)(※69)に入って住する時がいちばん安らかである。だからしてアーナンダよ、自己を洲(す)(※70)とし、自己を依拠(いきょ)(※71)として、他人を依拠とすることなく、法(ほう)(※72)を洲とし、法を依拠として、他を依拠とすることなく住するがよい(※73)。」という様に説かれました。
 そしてその後ブッダは、パーヴァーにおいて鍛治工チュンダの供養した食べ物にあたり、クシナーラーまできた時、その地において亡くなりました。
 ブッダは、死の直前にも、教えを求めてやってきたスバッダという名の沙門に教えを説きました。最後の言葉は、比丘達に対する、「(縁に因(よ)って生じた)一切の現象は滅びるものである。怠けることなく(修行を)完遂しなさい。」であったといいます。
 ブッダが亡くなった時、マハー・カッサパは、5百人の大比丘衆と共に、パーヴァーからクシナーラーに向かって遊行していました。そして、一人のアージーヴィカ教徒の行者に、師のことを存じないかと尋(たず)ねました。すると行者は、沙門ゴータマは般涅槃(はつねはん)(※74)されて、今日ですでに七日であることを告げました。すると、そのことを聞いた、年老いてから出家した一人の比丘が、「悲しむことはない。我らは、かの大沙門から脱することを得たのだからよいのだ。いまや、我らは、欲することはなし、欲せないことはなさないであろう。」という旨の発言をしました。
 そこで、後にマハー・カッサパは、比丘達に、「法(ほう)と律(りつ)(※75)とを結集(けつじゅう)(※76)し、非法非律を説く者が強くなることに先んじよう。」と告げました。そして僧伽に対し「僧伽は五百人の比丘を選び、ラージャガハにおいて雨安居に住し、法と律とを結集せしめ云々」と告げ賛成を得ました。(※77)
 結集では、マハー・カッサパが、まず、ウパーリに律を問い、ウパーリがそれに答えました。次いで、マハー・カッサパは、アーナンダに法を問い、アーナンダはそれに答えました。ここでまとめられた「法と律」すなわち「仏典」は、口頭で伝承されていきました。(※78)





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 ※41.  下男下女(げなんげじょ)のことです。
 ※42.  これらは全て、人の依(よ)って生きるところのものです。
 ※43.  煩悩(ぼんのう)を滅し尽くした悟りの境地のことです。
 ※44.  
雑念を払い、心を一つの対象に集中して乱さず、その対象を正確に観察して思索することです。
 ※45.  サンスクリット語のボーディ・サットバを、漢訳で菩提薩埵(ぼだいさった)と音写したその
     省略語のことです。悟りを求める人の意であり、悟りを開く以前のブッダのことを指します。
 ※46.  
知覚を基礎として心に浮かぶ、外の世界の対象の像のことです
 ※47.  悟りのことです。
 ※48.  現存する初期仏典の多くでは、「縁起(えんぎ)」「四聖諦(ししょうたい)」または、「五
     蘊(ごうん)」「六処(ろくしょ)」を知ることにより解脱したと伝えられているようです。 
 ※49.  原因のことです。
 
※50.  喉(のど)の渇いた者が水を求めるような激しい執著(しゅうじゃく)のことです。
 ※51.  世界の主宰神のことです。
 ※52.  このことを梵天勧請(ぼんてんかんじょう)と言います。
 ※53.  ブッダに具わる、一切を見通し、知る眼のことです。
 ※54.  仏眼の一つであり、全ての現象を見ることができる眼のことです。
 ※55.  僧が布教や修行のために各地を遍歴することです。
 ※56.  初期仏典には、六つの神通力(じんつうりき)、すなわち、神足通(じんそくつう)・天耳通
     (てんにつう)・他心通(たしんつう)・宿住通(しゅくじゅうつう)・死生通(ししょうつ
     う)・漏尽通(ろじんつう)という六つの超人的能力のことが説かれています。神足通は、一身
     が多身となり、多身が一身となる・あるいは身を現し、あるいは身を隠す・空中を行くように、
     壁を通過し、牆(かき)を通り、障害なく山を行く・水中におけるように、大地に出没する・地
     上を行くように、水上を行く・鳥のように、空中を趺坐(ふざ)(足を組み合わせて座ること)
     のまま行く・手をもって日月に触れる・その身をもって梵天界に到るというものです。天耳通
     は、人界・天界と遠近の音声を聞くというものです。他心通は、他の人間の心を知るというもの
     です。宿住通((宿命通)しゅくみょうつう))は、自己の過去世の記憶を呼び覚ますというも
     のです。死生通( 天眼通(てんげんつう))は、心を持つ全ての生き物である衆生(しゅじょ
     う)の来世でのありさまを知るというものです。そして漏尽通は、四聖諦を知ることによって解
     脱し、もはや再び生まれてくることはないと知るというものです。
 ※57.  独りで悟りを開き、教えを説く者のことです。
 ※58.  法輪を転じる、すなわち、転法輪(てんぽうりん)とは、ブッダが教えを説くことを言います。
 ※59.  心身を煩(わずら)わし悩ます心の働きのことです。
 ※60.  シュラーマナのことです。
 ※61.  ブッダの姓は、ゴータマと言います。
 ※62.  サンスクリット語のタターガタの漢訳であり、「真理より来(きた)れる者」等の意です。古
     代インドの当時においては、修行完成者の意となります。  
 ※63.  仏教における男性の僧のことです。
 ※64.  鉢(はつ)を持って町を歩き食物を乞うこと、乞食(こつじき)のことを指します。
 ※65.  苦行にも快楽にも偏らない正しい道のことです。
 ※66.  信じて拠り所とすることです。
 ※67.  僧伽とは、出家修行者の集団のことです。
 ※68.  奥義を握りしめて容易にあかさないことです。
 ※69.  雑念を払って心を一つの対象に集中し、乱さないことです。
 ※70.  土砂などの堆積によって、河の中にできた島のことです。
 ※71.  拠り所のことです。
 ※72.  ブッダの教えのことです。
 ※73.  このことは『自己とブッダの教えを拠り所として自己を成り立たせなさい、他人や他の教えを
     拠り所として自己を成り立たせてはならない。』ということを言っています。
 ※74.  完全な涅槃のことであり、ブッダの入滅(にゅうめつ)のことを指します。
 ※75.  僧伽の規則のことです。
 ※76.  ブッダの教えを編纂することです。
 ※77.  五百人の比丘は、全員が解脱した阿羅漢(あらかん)でした。
 ※78.  この時から百年後に、二度目の結集が開かれたと考えられているようです。

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 仏教教団は、マウリヤ王朝の第三代の王であるアショーカ王の治世(BC三世紀中葉)の頃から分裂をしはじめ、紀元前一〇〇年頃には約二〇の部派(※79)に分かれ、それぞれの部派が、自分たちに伝えられた「法と律」を伝承していきました。そして、その中のいくつかの部派は、伝えられた「法と律」をもとに、三蔵(さんぞう)を作り出しました。(※80)
 三蔵は、出家者の生活規則等を記した「律蔵(りつぞう)」、ブッダの教えを記した「経蔵(きょうぞう)(※81)」、ブッダの教えを解説した「論蔵(ろんぞう)」の三つから成ります。
 初期仏典の中で、最も早くまとめられたのは、律蔵の「経分別(きょうふんべつ)」「犍度部(けんどぶ)」と経蔵の「四部」であるようであり、「四部」はおよそ三~四世紀までには成立していたようです。しかし、紀元前後から一~二世紀までの仏典のありようについては、現在も明確になっていないようです。(※82)
 では、初期仏教の出家者と在家信者のあり方は、どのようなものだったのでしょうか。
 男性の出家者である比丘、女性の出家者である比丘尼(びくに)は、僧伽に所属し、「具足戒(ぐそくかい)(※83)」を授けられました。持ち物は、衣(大衣(だいえ)・上衣(じょうえ)・中衣(ちゅうえ)の三衣(さんえ))と鉢のみであり、食事は基本として一日一度の托鉢によって得ました。通常は基本的に遊行を行いますが、雨季の間の三ヶ月間は安居(あんご)(※84)に入りました。また、男女の出家者は、男性のみの出家教団と女性のみの出家教団に分かれて生活しました。
 男性の在家信者である優婆塞(うばそく)、女性の在家信者である優婆夷(うばい)は、ブッダ・法・僧伽に帰依し(※85)、五戒(ごかい)(※86)を守り、出家者・僧伽に布施(ふせ)(※87)をしました。また、月六回の斎日(さいにち)には八斎戒(はっさいかい)(※88)を守ることを勧められました。(※89)
 ブッダは、信者でない者には、まず、布施・五戒・八斎戒・生天(しょうてん)(※90)を説き、その者にさらなる高度な教えを聞く心の準備ができると、四聖諦を説きました。そして、悟りを開くのに、出家者と在家信者の違いはありませんでした。
 また、初期仏典においては、ブッダと法と僧伽に対して絶対の浄信を持ち、ブッダの説く戒めを守るときには、その人は預流(よる)(※91)となり、もはや地獄に生まれることはなくなり、悟りを開くことが確実に決まった者となると説かれました。その修行の段階には、天界と人界を七度行き来する間に悟りを開く者である預流(よる)、天界と人界を一度行き来して悟りを開く者である一来(いちらい)、人界に還ることなく色界で悟りを開く者である不還(ふげん)、今世の人界において悟りを開く者である阿羅漢(あらかん)があり、また、それぞれの段階には、預流向・預流果等の、結果に向かう過程である向(こう)と、過程の結果である果(か)の二段階があり、それを四向四果(しこうしか)といいました。さらに、そのようであると全部で八種類の聖者が存在することになるので、それを四双八輩(しそうはっぱい)といいました。





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※79.  「上座部(じょうざぶ)」、「説一切有部(せついっさいうぶ)」、「大衆部(だいしゅぶ)」
     等がありました。
※80.  現在においては、スリンランカの上座部大寺派(じょうざぶだいじは)における、パーリ仏典の
    三蔵のみが、その全体を保持しています。
※81.  『長部(ちょうぶ)』『中部(ちゅうぶ)』『相応部(そうおうぶ)』『増支部(ぞうしぶ)』
    の「四部(しぶ)」と、韻文仏典(いんぶんぶってん)の多い『小部(しょうぶ)』の『五部(ご
    ぶ)』からなります。『小 部』の仏典は、当初は結集仏典とはされていませんでしたが、後に経
    蔵に加えられました。
※82.  仏典の書写については、現在のところ、紀元前後から始まったと考えれれているようです。
※83.  波羅堤木叉(はらだいもくしゃ)。僧が守らなければならない戒律。部派仏教の一派である法蔵
    部(ほうぞうぶ)において伝承されてきた律である『四分律(しぶんりつ)』においては、比丘は
    二五〇戒、比丘尼は三四八戒あるとされます。
※84.  雨安居・・・出家者の住居・僧院・寺院である精舎(しょうじゃ)や洞窟にこもって修行に集中
    します。
※85.  このことを三帰依と言います。
※86.  生き物を殺さない不殺生戒(ふせっしょうかい)、与えられていないものを取らない不偸盗戒
    (ふちゅうとうかい)、配偶者以外との性行為をしない不邪婬戒(ふじゃいんかい)、虚言をなさな
    い不盲語戒(ふもうごかい)、飲酒をしない飲酒戒(ふおんじゅかい)の五つの戒めがあります。
※87.  財物を施すことです。
※88.  五戒の不邪婬戒が性行為を一切しない不淫戒(ふいんかい)となり、それに、正午以降に食事を
    しないこと、音楽・演劇を見聞きせず、装飾品・化粧品・香料などで身を飾らないこと、高くて広
    い寝具を用いないことの三つの戒を加えたものです。
※89.  布施をなし、五戒・八斎戒を守れば、来世において天界に生まれると説かれました。
※90.  来世において天界に生まれ変わることです。
※91.  悟りへの流れに入ることです。

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 それではここより、ブッダの思想そのものについて述べさせていただきたいと思います。先ほども申しましたように、仏典は口頭で伝承されたために、ブッダが実際にどのような教えを説いたのかはわかっておりませんし、現在残っている仏典の成立過程も明確ではありません。しかし、諸資料から判断しますに、初期仏教においては、「縁起(えんぎ)」、「五蘊(ごうん)」、「六処(ろくしょ)」、「四聖諦(ししょうたい)」等の教えが、ブッダの教えの主流として存在していたと言ってもよいようですので、以下に、「一二支縁起(じゅうにしえんぎ)」、「五蘊」、「六処」、「四聖諦」の順に、その内容を述べさせていただきたいと思います。
 「縁起(えんぎ)」とは、ブッダの思想の中心となる教えであり、縁(よ)りて起こる、すなわち、「すべての事物は相依性(そうえしょう)(※92)のものであり、縁(えん)、すなわち、原因に因(よ)って起こる。」という意味です(※93)。ブッダはこのことを「これあればこれあり、これ生ずればこれ生ず。これなければこれなし、これ滅すればこれ滅す。(※94)」という言葉で表現しました。これは、ブッダの「存在」に対する見解であり、また、その悟りの内容の一部でもあります。そしてこのことは、あくまでも「方便(ほうべん)」、すなわち、「ブッダが衆生を、言葉で表現することができない悟りの根幹に導くためにとる仮の手段」としての意味でですが、ブッダが世の中に現れようとも、現れまいとも、真理として定まっていることだと説かれます。
 初期仏典において説かれるところでは、事物は生まれてくるので「無」というものはありません。また、事物は滅んでいくので「有」というものもありません。ただ、あるいは苦であり、あるいは楽であり、あるいは苦でも楽でもない様々な事物が「縁起」により生滅(しょうめつ)しているのみということになります。「一切は無である」、すなわち、「一切の事物は存在していない」という見方は一つの極端であり、「一切は有である」、すなわち、「一切の事物は存在している」という見方はもう一つの極端となります。ブッダはこの二つの極端を離れて、中(ちゅう)、すなわち、どちらの極端にも偏らない中ほどの見方によって教えを説きました。それが「一二支縁起(じゅうにしえんぎ)」です。
 「一二支縁起」においては以下の様に「縁起」が説かれます。



「無明(むみょう)に因って行(ぎょう)がある。行に因って識(しき)がある。識に因って名色(みょうしき)がある。名色に因って六処(ろくしょ)がある。六処に因って触(そく)がある。触に因って受(じゅ)がある。受に因って愛(あい)がある。愛に因って取(しゅ)がある。取に因って有(う)がある。有に因って生(しょう)がある。生に因って老死(ろうし)・愁(しゅう)・悲(ひ)・苦(く)・憂(ゆう)・悩(のう)が生じる。これが、縁に因って苦が集積する有り様である。 
 無明を滅ぼすことに因って行が滅びる。行を滅ぼすことに因って識が滅びる。識を滅ぼすことに因って名色が滅びる。名色を滅ぼすことに因って六処が滅びる。六処を滅ぼすことに因って触が滅びる。触を滅ぼすことに因って受が滅びる。受を滅ぼすことに因って愛が滅びる。愛を滅ぼすことに因って取が滅びる。取を滅ぼすことに因って有が滅びる。有を滅ぼすことに因って生が滅びる。生を滅ぼすことに因って老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅びる。これが、縁が滅びることに因って苦の集積が滅びる有り様である。」



 では無明(むみょう)とは何でしょうか。無明とは、明かり無し、すなわち、智慧が無いということであり、ブッダの説く「四聖諦(ししょうたい)」(※95)を知らない根本的無知のことを指します。この無明を原因として行(ぎょう)が生じます。
 行とは、意思のことをいいます。意思は心の作用の一つであり、身体における行為(行動)、口における行為(発言)・心における行為(思い)として現れますが、有情(うじょう)(※96)が悟りを開いて解脱しない限り、その死において、それは、来世の識(しき)、すなわち、心を生み出して転生します。(※97)
 識とは、識別・認識する作用を含む、心そのものことをいいます。識は、色と形を認識する心である眼識(げんしき)・音を認識する心である耳識(にしき)・香りを認識する心である鼻識(びしき)・味を認識する心である舌識(ぜっしき)・感触を認識する心である身識(しんしき)・物事を認識する心である意識(いしき)の六つに分けられます。この識を原因として名色(みょうしき)が生じます。
 名色とは、精神の働きと肉体のことをいいます。それは仏教では、肉体を意味する色(しき)・感受を意味する受(じゅ)・表象を意味する想(そう)・意思を意味する行(ぎょう)・識別・認識する作用を含む、心そのものを意味する識(しき)の「五蘊(ごうん)」として説かれ、人間の存在を表します。また、初期仏典においては、受(じゅ)・想(そう)と、思惟を意味する思(し)・接触を意味する触(そく)・意志を意味する作意(さい)を、形がないので、名称だけで知られる名(みょう)として、そして、地・水・火・風の四大要素によって作られた肉体を、物質で形があるので、形を持って知られる色(しき)として説きます。この名色を原因として六処(ろくしょ)が生じます。
 六処とは、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)(※99)・意(い)(※100)の六つの感覚器官である六根(ろっこん)と、その対象となる、色と形を意味する色(しき)・音を意味する声(しょう)・匂いを意味する香(こう)・味である味(み)・感触を意味する触(そく)・物事を意味する法(ほう)の六境(ろっきょう)と、六根と六境との相関によって認識が生じることとをいいます。この六処を原因として触(そく)が生じます。
 触とは、六根と六境の接触、すなわち、六つの接触のことをいいます。この触を原因として受(じゅ)が生じます。
 受とは、感受(かんじゅ)(※101)のことであり、心が、六根と六境の接触によって生じる六つの感覚を受け入れ、苦・楽・不苦不楽等を感じることをいいます。この受を原因として愛(あい)が生じます。
 愛とは、渇愛(かつあい)(※102)のことをいいます。それには、色・声・香・味・触・法にたいする渇愛という、六つの渇愛があります。この愛を原因として取(しゅ)が生じます。
 取とは、執著(しゅうじゃく)(※103)のことをいいます。執著には、財産や名誉等を意味する欲(よく)にたいする執著、所見・物の見方を意味する見(けん)にたいする執著、戒禁、すなわち、間違った行動規範を意味する戒(かい)にたいする執著、自我を意味する我(が)にたいする執著という、四つの執著があります。この取を原因として有(う)が生じます。
 有とは、存在のことをいいます。存在には、欲界(よっかい)における存在と、色界(しきかい)における存在と、無色界(むしきかい)における存在という三つの存在があります。(※104)
 欲界とは、欲望の世界であり、性欲・食欲・睡眠欲等の本能的欲望を持つ者の世界です。それは、地獄(じごく)・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・人(じん)・天(てん)の五つの世界から成ります(※105)。
 色界とは、初禅(しょぜん)・第二禅(だいにぜん)・第三禅(だいさんぜん)・第四禅(だいしぜん)の四禅(しぜん)を修めた者(※106)の、浄らかな物質の世界です。それは、初禅天(しょぜんてん)・第二禅天(だいにぜんてん)・第三禅天(だいさんぜんてん)・第四禅天(だいしぜんてん)の四禅天(しぜんてん)から成ります。
 無色界とは、肉体や物質というものから離脱して、精神の働きである受・想・行・識の四蘊(しうん)のみで構成される世界です。空無辺処(くうむへんしょ)・識無辺処(しきむへんしょ)・無処有処(むしょうしょ)・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の四天(してん)から成ります。
 有は、著者にとっては大変難解な概念なのですが、現在は、現世で死亡してから来世で誕生するまでの間の、識、すなわち、心のことを言うのではないかと考えております。 
 この有を原因として生(しょう)があります。(※107)
 生とは、有情の誕生のことをいいます。この生を原因として老死(ろうし)・愁(しゅう)・悲(ひ)・苦(く)・憂(ゆう)・悩(のう)があります。
 老死・愁・悲・苦・憂・悩とは、文字通り苦しみのことです。(※108)
 それでは、無明が滅びるとどうなるのでしょうか。初期仏典には、意訳的に要約すると、この様にあります。



「人が無明に覆(おお)われている時には、その人が善いことをしようという意思を持てば、その人の心はおのずから善いことをなすことに向かう。その人が善くないことをしようという意思を持てば、その人の心はおのずから善くないことをなすことに向かう。またもし、その人が善悪いずれでもないことをしようという意思をもてば、その人の心は善悪いずれでもないことをなすことに向かう。
 しかし、人が、無明を滅ぼしたならば、その人には一切の事物に対する執著がないので、その人はもはや善いことをしようという意思は持たず、善くないことをしようという意思も持たず、また、善悪いずれでもないことをしようという意思も持たなくなる。
 かくして、彼は、何ものにも執著することがなく、それ故に悩みもなく、自ら満足して、『自分の迷妄(めいもう)の生活は終わった。修行は完成した。なすべきことはなし終えた。このうえは、もはや転生(てんしょう)することはないであろう』と知るのである。」



 無明を滅ぼした人は、楽しいこと・苦しいこと・楽しいことでも苦しいことでもないことに触れても、「それは無常(むじょう)(※109)であり、執著・享受(きょうじゅ)すべきものではない、すなわち、一切の事物は縁によって生滅変化する、実体のない幻の如きものであるので、執われたり受け取ったりするべきものではない。」という様に認識して、こだわることなく、それを感受します。そして、ついに身体が壊滅(かいめつ)する時に至れば、「自分の命はいま尽きるが、これで感覚を受けることも、何かを享受することも終わり、身体は冷たい遺骸(いがい)となって、この場に横になるだけである。」という様に、ただ知ります。
 「縁起」の教えは、一見すると、たいへん明確な見解であるように思えます。しかしある時、ブッダに対して、侍者である弟子のアーナンダが、「縁起の法は、極めて奥が深いと申されますが、それは、私には、どうにも奇妙なことのように思われます。私には、それはたいへんはっきりしているように思われます。」という様に言うと、ブッダは、「そう言ってはいけない。縁起の法は深遠である。この法を会得(えとく)しないから、人々は、延々(えんえん)と地獄の輪廻を繰り返すのである。」という様にいってたしなめられました。
 ブッダ が「縁起」の教えを持って伝えようとした、「実体がない」という、言葉で説明することのできない甚(はなは)だ深くて微妙で思考の領域を超えた「世界の実相」、すなわち、「世界の真実の姿」を理解することは、ブッダの悟りの根幹を理解することとなります。(※110)(※111)
 




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※93.  互いに密接な関係にあることです。
※94.  (意訳的に言えば、)ブッダの思想のおいては、縁に因って起こらないもの、すなわち、それだ
     けで完全に独立して存在しているもの、すなわち、絶対不変・永久不滅のものは、時間・空間・
     エネルギー・物質・無・数式・物理法則・心・仏の教え・悟りの境地等を含めて、徹頭徹尾完全
     にありません。
※95.  この原因・条件があることによってこの事物があり、この原因・条件が生まれることによってこ
    の事物が生まれる。この原因・条件がなければこの事物はなく、この原因・条件が滅びればこの事
    物も滅びるという意味です。
※96.  「四つの聖なる真理」という意味であり、苦の聖なる真理である苦聖諦(くしょうたい)、苦の
    生起の聖なる真理である苦集聖諦(くじゅうしょうたい)、苦の滅尽の聖なる真理である苦滅聖諦
    (くめつしょうたい)、苦の滅尽にいたる道の聖なる真理である苦滅道聖諦(くめつどうしょうた
    い)の四つの真理のことをいいます。
※97.  心・感情を持つ生き物のことです。
※98.  この行と先の無明が、有情の前世においての「縁起」となります。
※99.  身体のことです。
※100.  心の働きのこと。仏教においては、心の働きも感覚器官の一つとされます。
※101.  感覚器官によって、外の世界の刺激・印象を受け入れることです。
※102.  喉の渇いた者が水を求めるが如き激しい欲望のことです。
※103.  心が、何かの事物に強く深く囚われることです。
※104.  欲界・色界・無色界を三界(さんがい)と言います。
※105.  後に修羅(しゅら)を加えて地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道(ろくどう)となりまし
     た。
※106.  欲界に生きる者のごとき欲望はないが、未だ肉体や物質というものからは離脱していない者の
     ことです。
※107.  識から有までが有情の現世での「縁起」となります。
※108.  生と老死・愁・悲・苦・憂・悩が有情の来世での「縁起」となります。
※109.  物事は、縁起によって生まれると共に、必ず、縁起によって滅びるので、恒常なるものは何も
     ないということです。
※110.  ブッダ自身が輪廻転生(りんねてんしょう)を肯定していたのか、それとも、当時の多くの人
     がそのことを信じていたので、一つの方便(ほうべん)、すなわち、衆生を真理に導くためにと
     る仮の手段としてそれを説いたのかは定かではありませんが、どちらにしても、初期仏典の思想
     は、輪廻転生を前提として作り出されています。初期仏教の目的はただ一つ、悟りを開いて解脱
     すること、すなわち、無始無終の輪廻転生から解放されて再び生まれることがないようにし、そ
     れによって、二度と苦しみを受けないようにすることにあります。
※111.  出家の道は、自分一人のための幸福の道と思われることもあったようですが、ブッダは、「自
     分が教えを説き、数百、数千、数万の人々が自分と同じように修行したならば、出家の道は、多
     くの人々のための幸福の道ということになるであろう。」という様に説きました。

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 次に「五蘊(ごうん)」について述べさせていただきたいと思います。
 「五蘊」とは、色(しき)・受(じゅ)・想(そう)・行(ぎょう)・識(しき)という、人間を構成する五つの要素のことをいいます。
 色とは、肉体のことです。初期仏典においては、地・水・火・風の四大要素からなるとされます。
 受とは、一二支縁起における受と同じものです。それは感受(かんじゅ)のことであり、心が、「眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)・意(い)」と「色(しき)・声(しょう)・香(こう)・味(み)・触(そく)・法(ほう)」の接触によって生じる「六つの感覚」を受け入れ、苦・楽・不苦不楽等を感じることをいいます。
 想(そう)とは、表象(ひょうしょう)(※112)のことです。また、外の世界の対象を、これは何々、あれは何々と識別する心の作用のことをいいます。初期仏典においては、六つの表象する作用、すなわち、感覚器官の対象である色・声・香・味・触・法の表象と説かれます。
 行(ぎょう)とは、一二支縁起における行と同じものです。意思のことをいいます。意思は心の作用の一つであり、身体における行為(である行動)、口における行為(である発言)・心における行為(である思い)として現れます。初期仏典においては、六つの意思する行為、すなわち、感覚器官の対象である色・声・香・味・触・法への意思と説かれます。
 識(しき)とは、一二支縁起における識と同じものです。識別・認識する作用を含む、心そのもののことをいいます。初期仏典においては、六つの意識する行為、すなわち、感覚器官である眼・耳・鼻・舌・身・意の意識と説かれます。
 つまり、「五蘊」とは、「人間の肉体と、心と、それらの働き」のことを指しています。
 ブッダは、これら色・受・想・行・識、すなわち、「人間の肉体と、心と、それらの働き」を、「無常(むじょう)・苦(く)・無我(むが)であり、わがものにあらず、わが我にあらず、わが本体にあらず。」と説きました。
 無常とは、先ほども申しましたように恒常ではないということです。一切の事物は、縁に因って生じると共に、必ず、縁が滅びることに因って滅びるので、恒常ではありません。それ故(ゆえ)に、「人間の肉体と、心と、それらの働き」もまた、縁起によって生滅変化する無常なるものとなります。
 苦とは、ブッダの思想においては、思い通りにならないということを指します。縁に因って生滅変化する無常なるものは、自分がどう思おうとも、縁に因って生滅変化してしまうものであるので、自分の思い通りにはなりません。それ故(ゆえ)に、「自身の肉体と、心と、それらの働き」というものも、自分の思い通りにはなりません。肉体は、いつまでも若くいたいと思っても縁に因って老い、常に健康でいたいと思っても縁に因って病気になり、永遠に生きていたいと思っても縁が滅びることに因って死滅します。心は、これもまた、常に安楽でいたいと思っても、縁に因って憎い者と出会って怒り、縁が滅びることに因って愛しい者と離れて悲しみ、縁がないことに因って求めるものが得られず悩みます。これらは、すなわち、「自身の肉体と、心と、それらの働き」がそのまま苦であることを示しています。ブッダの思想においては、「五蘊」を含む一切の事物は皆、縁に因って生滅変化する思い通りにならないもの、すなわち、苦です。それ故にブッダは、一切の事物を嫌に思って、それらから離れるようにと説きます。
 無我とは、すなわち、自分ではないということです。初期仏典にはこの様にあります、「『五蘊』が自分であるなら、『五蘊』は病気にならないだろうし、また、自分の『五蘊』はこのようであれとか、このようではあるなとかいうことができるはずである。しかし、『五蘊』は自分ではないので、そのようなことはできない。」と。ブッダは、「無常なるものは、苦であり、苦なるものは無我である。」すなわち、「恒常でないものは思い通りにならず、思い通りにならないものは自分ではない。」と説きます。
 わがものにあらずとは、無我なるもの、すなわち、自分ではないものは、自分のものではないということです。それはすなわち、「自身の肉体と、心と、それらの働き」は、自分のものではないということになります。
 わが我にあらずとは、自分というものは、自分ではないということです。常識的に考えれば、「自身の肉体と、心と、それらの働き」こそが、紛(まぎ)れもなく自分なのですが、ブッダの目から見れば、それは、無常・苦にして無我なるものであるので、自分ということはできません。そこから導き出される結論として、「自身の肉体と、心と、それらの働き」という所謂(いわゆる)「自分」は、実は、自分ではないということになります。
 わが本体にあらずとは、「自身の肉体と、心と、それらの働き」は、自分の実体(じったい)(※113)・霊魂ではないということです。ブッダは、「五蘊」が自分であるとはいいません。また、「五蘊」の他に自分があるともいいません。ブッダは、この生命を構成する五つの要素が、いわゆる「自分」であるとは考えるのですが、しかし、それが、永久不滅の実体であるとは見ないのです。ブッダの思想においては、「人間の肉体と、心と、それらの働き」は、それが存在するだけの縁が滅びれば、跡形もなく滅びるものであり、そこに、死して後も存在する、永久不滅の霊魂のようなものはありません。(※114)
 初期仏典には、意訳的に要約すると、「五蘊」について以下のような教えが説かれています。
 


「まだ教えを聞かない者は、色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは自分である、自分は
色・受・想・行・識を所有する、自分の中に色・受・想・行・識があり、色・受・想・行・識のなかに自分があると見る。しかし、彼の色・受・想・行・識は(彼の好まない状態へと)変化する。すると、彼の心もその変化について働きはじめる。すると彼には苦悩の思いが生まれ、その心を掴(つか)んで逃さなくなる。彼はどうしてよいか分からなくなって戸惑(とまど)い、怒りながらも強く縋(すが)り付いて、苦しみ悩む。執著と苦悩とはこのようなものである。」



「色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは無常・苦・無我、すなわち、恒常ではなく、思い通りにならず、自分ではないものである。
色・受・想・行・識を生起(せいき)させる因と縁、すなわち、原因と条件もまた、恒常ではなく、思い通りにならず、自分ではないものである。恒常ではなく、思い通りにならず、自分ではないものによって生起した色・受・想・行・識が、どうして恒常であり、思い通りになり、自分であることがあろうか。私の弟子たちは、そのように観て、色・受・想・行・識を嫌に思って離れる。嫌に思って離れれば貪欲を離れる。貪欲を離れれば解脱する。」


「色・受・相・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは、無常、すなわち、恒常ではないものである。(それは、)因と縁、すなわち、原因と条件があって生じたものである。故(ゆえ)に、消失するものであり、衰えて終わるものであり、(それに対する)貪りを離れるべきものであり、滅びるものである。」


「色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きによって生じる楽しみと喜びこそが、
色・受・想・行・識の味わいである。しかし、その色・受・想・行・識は、無常・苦、すなわち、恒常ではなく、思い通りにならないものであって、変化するものである。それが、色・受・想・行・識の禍(わざわ)いである。そこで、色・受・想・行・識において、貪欲を去り、かつ、断つ。これが色・受・想・行・識から抜け出す道である。」


「色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きを歓喜する者は、苦、すなわち、思い通りにならないものを歓喜する者である。思い通りにならないものを歓喜する者は、思い通りにならないものより解脱せず、とわたしはいう。」


「比丘たちよ、色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは、そなたたちのものではない故(ゆえ)に、これを捨てるがよい。そなたたちがこれを捨てれば、そなたたちの利益となり、安楽となろう。比丘たちよ、それは、たとえば林の樹の幹や枝葉のようなものである、もし人がいて、それらを伐(き)ったり、焼いたりしたとしたら、そなたたちは、彼に、『あなたは我らを伐り、焼く。』と文句をいうだろうか。」
「大徳(※115)よ、そういうわけにはまいりません。」
「それはどうしてであろうか。」
「大徳よ、それらは、わたしども自身でもないし、わたしどもの所有でもないからであります。」
「比丘たちよ、それと同じように、
色・受・想・行・識は、そなたたちのものではない故に、これを捨てるがよい。そなたたちがこれを捨てれば、そなたたちの利益となり、安楽となろう。」


「比丘たちよ、たとえばこのガンジス河が、泡の集まりを生じるようなものである。優れた眼力のある人々は、それを観察して、その性質を見抜く。彼らは、それは上辺(うわべ)だけのもので、実体も、本質もないことを知るであろう。比丘たちよ、どうして、泡の集まりに本質があるだろうか。比丘たちよ、そのように、あらゆる色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは、それがどのようなものであるかを問わず、比丘は、それを観察して、その本当の姿を見抜く。彼は、それは上辺だけのもので、実体も、本質もないことを知る。比丘たちよ、どうして
色・受・想・行・識に本質があるだろうか。」


 世尊(※116)は、一つまみの塵(ちり)をつまんで爪の上にのせ、その比丘にいった。
「比丘よ、たったこれだけの色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きであっても、変化することなく、永遠に存在するものはない。」


「色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きは魔羅(マーラ)、すなわち、悪魔である。そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、
色・受・想・行・識嫌に思って離れる。嫌に思って離れれば貪欲を離れる。貪欲を離れれば解脱する。」



 ブッダの思想においては、所謂(いわゆる)自分とは、「五蘊」、すなわち、「肉体と、心と、それらの働き。」のこととなります。しかしそれは、縁に因(よ)って、自分の意志とは裏腹に生滅変化する実体のない幻の如(ごと)きものなので、とても自分とは言えません。しかして、それ以外に自分と言えるものはないので、自分とは、すなわち、「自分の思い通りにならない、実体のない幻の如きもの」ということになります。
 「私とは何か?どこから来て、どこへ行くのか?」という問いにブッダの思想で答えるならば、「私とは、縁に因って自分の意志とは裏腹に生滅変化する、実体のない幻の如きものである。そしてそれは、縁が生まれることによって生まれ、縁が滅びることによって跡形もなく滅びる性質のものなので、どこから来たとか、どこへ行くとかと言えるものではない。」というようになります。


 




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※112.  知覚を基礎として心に浮かぶ、外の世界の対象の像のことです。対象が目の前にある場合の知
     覚表象、想起による場合の記憶表象、想像による場合の想像表象があります。
※113.  そのものの本体、正体、実質のことです。
※114.  初期仏典においては、「自分のこの肉体は、四大元素よりなり、父親と母親によって生まれ、
     食物によって養われるものであり、それを詳しく調べれば、結局のところ、それは無常なるもの
     であり、最終的には壊滅するものである。」という様に説かれると共に、「自分の意識というも
     のは、その肉体に依(よ)って存在し、これに関連するものである。」という様に説かれます。
     ただし、死ぬ人の心に執著がある場合、それが縁となって心は新たな心を生み出し、その新たな
     心が転生するとします。
※115. ブッダ のことです。
※116. ブッダのことです。     

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 次に、「六処(ろくしょ)」について述べさせていただきたいと思います。
 一二支縁起の箇所(かしょ)でも述べさせていただきましたが、「六処」とは、眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜつ)・身(しん)と心を意味する意(い)の六つの感覚器官である六根(ろっこん)と、その対象である色と形を意味する色(しき)・音を意味する声(しょう)・匂いを意味する香(こう)・味である味(み)・感触を意味する触(そく)・物事を意味する法(ほう)の六境(ろっきょう)と、六根と六境の相関によって認識が生じることとをいいます。
 初期仏典においては、眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法とをもって、一切と説きます。その理由は、有情(うじょう)にとっては、これらの感覚器官や、その対象や、それら二つの接触がなかったならば、全ての感覚と認識はなくなり、自分と世界は無いに等しくなるからです。そして、それら、一切であるところの「六処」は、「五蘊」、すなわち、「肉体と、心と、それらの働き。」と同じく、「無常(むじょう)・苦(く)・無我(むが)であり、わがものにあらず、わが我にあらず、わが本体にあらず。」、すなわち、「恒常ではなく、思い通りにならず、自分ではなく、自分のものではなく、自分における自分ではなく、自分の本体ではない。」と説かれます。
 初期仏典には、意訳的に要約すると、「六処」について、以下のような教えが説かれています。

 

「眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官を縁、すなわち、原因として起こるところの楽しさと喜び、それが六つの感覚器官の味わいである。また、その六つの感覚器官が、すべて無常かつ苦にして移ろい変わるものであること、すなわち、恒常ではなく、思い通りにならず、変化するものであること、それが六つの感覚器官の禍(わざわ)いである。さらに、その六つの感覚器官における貪欲を離れ、捨てること、それが六つの感覚器官からの脱出である。」


「比丘たちよ、人が眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官において歓喜するのは、また、その六つの対象である色・声・香・味・触・法に対して歓喜するのは、それは苦、すなわち、思い通りにならないものを歓喜するのである。人が苦を歓喜するようでは、苦から離脱することはできない。
 比丘たちよ、人が六つの感覚器官において歓喜しないのは、また、その六つの対象に対して歓喜しないのは、それは苦を歓喜しないのである。人が苦を歓喜しないならば、彼はすでに苦から離脱したのである。」


「比丘たちよ、一切は燃えている。
 比丘たちよ、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚器官は燃えている。その六つの対象である色・声・香・味・触・法は燃えている。それらの相関によって生じる六つの感覚器官の認識は燃えている。六つの感覚器官の接触するところは燃えている。また、その六つの感覚器官の接触を縁、すなわち、原因として生ずるところの楽・苦・不苦不楽等の受、すなわち、感受も燃えている。では、それらは、何によって燃えているのか。それは、貪りの火・瞋恚(しんに)(※117)の火・愚痴(ぐち)(※118)の火で燃えているのであり(※119)、あるいは、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)・愁(しゅう)・悲(ひ)・苦(く)・憂(ゆう)・悩(のう)により燃えているのである。
 比丘たちよ、わたしの教えを聞いた弟子たちは、一切の事物は、縁に因って生滅変化する、実体のない幻の如きものであると知るが故(ゆえ)に、六つの感覚器官と、その対象と、その認識と、その接触において厭(いと)い離れ、また、その接触を縁として生ずるところの感受の、楽・苦・不苦不楽なるものをも厭い離れる。」


「まだわたしの教えを聞かない凡夫(ぼんぷ)(※120)は、苦、すなわち、思い通りにならないことを感受すると泣き、悲しみ、心が狂乱する。まさしく、彼は二重の感受を感じるのである。すなわち、身体における感受と、心における感受とである。
 比丘たちよ、それは、例えるならば、一番目の矢で射られた後、さらにまた、二番目の矢で射られるようなものである。
 すなわち、苦を感受すると、彼は怒りを感じる。すると瞋恚の種子がその人を捉(とら)える。また、彼は、苦を感受すると、今度は欲楽を求める。なぜであろうか。凡夫は、欲楽以外に、苦しみの感受から逃れる道を知らないからではないか。そして、貪欲(とんよく)の種子がその人を捉(とら)える。・・・彼は、苦を感受すれば、それに縛られ、楽を感受すれば、それに縛られ、不苦不楽を感受すれば、それに縛られる。
 しかし、わたしの教えを聞いた弟子は、苦を感受しても嘆き悲しむことはない。なぜならばその人は、ただ一つの感受を受けているのみだからである。すなわち、それは、身体における感受であって、心における感受ではないからである。その人の心は、苦・楽・不苦不楽を感受しても、それらは、縁に因って生滅変化する、実体のない幻の如きものであるとよく知っているので、それに縛られる、すなわち、それらに執われたり、それらを受け取ったりすることはない。その人は、要するところ、苦しみによって縛られていない。」



 ブッダの思想においては、「六処」、すなわち、「六つの感覚器官と、その六つの対象と、それらの相関によって生じる六つの感覚器官の認識」もまた、「五蘊」、すなわち、「肉体と、心と、それらの働き」と同じように、縁に因って自分の意思とは裏腹に生滅変化する実体のない幻の如(ごと)きものであって、自分とは言えません。





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※117.  怒りの火のことです。
※118.  愚かさの火のことです。
※119.  仏教においては、貪り・瞋恚・愚痴を三毒(さんどく)と言います。
※120.  煩悩に縛られ迷っている人のことです。

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 次に、「四聖諦(ししょうたい)」について述べさせていただきたいと思います。
 「四聖諦」とは、四つの聖なる真理という意味であり、苦の聖なる真理である苦聖諦(くしょうたい)、苦の生起の聖なる真理である苦集聖諦(くじゅうしょうたい)、苦の滅尽の聖なる真理である苦滅聖諦(くめつしょうたい)、苦の滅尽にいたる道の聖なる真理である苦滅道聖諦(くめつどうしょうたい)からなります。 
 苦聖諦とは、「一切の事物は、縁に因(よ)って生滅変化する、実体なき無常なるものであるので、苦、すなわち、思い通りにならないものである。」という教えです。
 初期仏典においては、苦について以下の様に説かれます。


 「生まれることは苦である。老いることは苦である。病にかかることは苦である。死ぬことは苦である。嘆(なげ)き・悲しみ・苦しみ・憂(うれ)い・悩みは苦である。憎い者と出会うのは苦である。愛する者と別れるのは苦である。求めるものを得られないのは苦である。すなわち、『五蘊』という人間の構成要素がそのまま苦である。」と。


 苦集聖諦とは、「苦しみの原因は、渇愛(かつあい)である。」という教えです。
 一二支縁起の箇所(かしょ)でも述べました通り、渇愛とは、喉の渇いた者が水を求めるが如き激しい欲望のことであり、この、喜びながら際限なく欲しがり、あちらこちらへと絡(から)まりつく渇愛が、輪廻転生(りんねてんしょう)を引き起こし、有情(うじょう)を苦しめます。
 渇愛には、欲愛(よくあい)・有愛(うあい)・無有愛(むうあい)という三つの種類があります。
 欲愛とは、快楽や物等を求める一般的な渇愛、すなわち、性欲や所有欲等のことです。
 有愛とは、生存に対する渇愛であり、滅びることなく永遠に存在していたいと願う渇愛のことです。
 無有愛とは、断滅に対する渇愛であり、この世界があまりにも苦しいので早く死んでしまいたい、そして、死んだら完全に滅びてしまって二度と生まれてきたくないと願う渇愛のことです。(※121)
 苦滅聖諦とは、「あらゆる渇愛を捨て去って解脱すれば、輪廻転生は終わり、永遠に苦しみを受けることはなくなる。」という教えです。
 苦滅道聖諦とは、「渇愛を捨てて苦しみを滅ぼすための方法は、正見(しょうけん)・正思(しょうし)・正語(しょうご)・正業(しょうごう)・正命(しょうみょう)・正精進(しょうしょうじん)・正念(しょうねん)・正定(しょうじょう)の八つの正しい道、すなわち、八正道(はっしょうどう)である。」という教えです。
 正見とは、「四聖諦」を知り、その教えに従って物事を見ることです。このことにより、一二支縁起における苦の根本原因である、無明、すなわち、根本的無知が滅びます。
 正思とは、迷いの世界を離れるように、悪意を抱くことがないように、他人を害することがないようにと思うことです。
 正語とは、嘘をつかず、中傷せず、粗悪な言葉、汚い言葉を使わないことです。
 正業とは、生き物を殺さないこと。盗みをしないこと。性行為をしない事です。
 正命とは、ブッダの説く戒めを守って生活する事です。
 正精進とは、未(いま)だ生じていない悪は生じないように、すでに生じた悪は断つように、未だ生じていない善は生じるように、すでに生じた善は完全になるようにと、ただひたすらに努力する事です。
 正念とは、自分の身体・感受・心、及び、物事を細部に渡るまで観察して過ごし、熱意をかたむけて、正しく認識し、正しく気をくばって(、すなわち、一切の事物は全て、縁に因って生滅変化する、実体なき幻の如きものであるので、執われたり、受け取ったりするべきものではないと、よくよく観察し認識して)、世間に対する際限なき欲望、すなわち、貪欲(とんよく)と、憂いに打ち勝つことです。
 正定とは、四禅(しぜん)、すなわち、初禅(しょぜん)・第二禅(だいにぜん)・第三禅(だいさんぜん)・第四禅(だいしぜん)を修めることです。
 初禅とは、欲望から離れ、不善から離れ、未(いま)だ粗大な心の動きと、微細な心の動きはあるけれども、欲望・不善から離れた喜びと楽しみのある禅定(ぜんじょう)の境地です。
 第二禅とは、粗大な心の動きと、微細な心の動きが鎮まり、心の内が清らかとなって集中し、三昧(さんまい)(※122)より生じた喜びと楽しみのある禅定の境地です。
 第三禅とは、喜びを離れ、善悪苦楽の分別(ふんべつ)も、何らの執著もない平等な境地にあり(八正道の)と智慧があって、身体に楽しみを受け、聖者達が、「平等であって尚且(なおか)つ正念があり、身体によって楽しみを受ける。」と言った、禅定の境地です。
 第四禅とは、苦楽を捨て、かつ、断ち切り、すでに喜びと憂いが滅んでいるので、不苦不楽にして平等と正念のある、清浄な禅定の境地です。(※123)
 ブッダの思想においては、「四聖諦」は「明(みょう)、すなわち、知識であると共に、如(にょ)、すなわち、世界のありのままの姿・真理である。」と説かれます。そして、そこにおいて示される「八正道(はっしょうどう)」こそが、愛欲に執著することと苦行を行うことの二つの極端を捨てた、涅槃へと至る正しい道、すなわち、「中道」であるとされます。(※124)





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※121.  初期仏教の目的も、苦しみを受けないようにするために、輪廻転生から解脱して二度と生まれ
     てこないようにすることですが、そこに至るためには、智慧と修行によってあらゆる渇愛を滅尽
     する必要があります。涅槃の境地を目指すのと、無有愛とは、一見すると似ていますが、その内
     容は全く異なるものです。
※122.  雑念を払い、心を一つの対象に集中して乱さないことです。
※123.  初期仏典には、四禅よりも高度な禅定として、空無辺処(くうむへんしょ)、識無辺処(しき
     むへんしょ)、無所有処(むしょうしょ)、悲想非非想処(ひそうひひそうしょ)、相受滅(そ
     うじゅめつ)が説かれています。
      空無辺処とは、一切の物質の表象(ひょうしょう・・・
知覚を基礎として心に浮かぶ、外の世
     界の対象の像
)を超越し、何かの物質があるとの思いを滅し、種々の表象を描かず、空間は無限
     であると観(かん)じる禅定の境地です。
      識無辺処とは、一切の空無辺処の境地を超越し、識(心)は無限であると観じる禅定の境地で
     す。
      無所有処とは、一切の識無辺処の境地を超越し、何ものも存在しないと観じる禅定の境地で
     す。
      非想非非想処とは、一切の無所有処の境地を超越し、表象が有るのでもなければ、無いのでも
     ないと観じる禅定の境地です。
      想受滅とは、一切の非想非非想処の境地を超越し、表象も感受も滅んだ禅定の境地です。
※124.  初期仏典には、後に三十七菩提分法(さんじゅうななぼだいぶんぽう)と呼ばれるようにな
     る、四念処(しねんじょ)・四正勤(ししょうごん)・四如意足(しにょいそく)・五根(ご
     こん)・五力(ごりき)・七覚支(しちかくし)・八支聖道(はっししょうどう)という実践
     修行法が説かれています。
      四念処とは、自分の身体・感受・心、及び、物事を、熱意と智慧と正念(八正道の正念のこと
     です。)をもって観察し、際限なき欲望、すなわち、貪欲(とんよく)より起こる憂いに打ち勝
     って生活することです。八正道の正念と同等の修行法です。
      四正勤とは、八正道の正精進と同じ修行法です。
      四如意足とは、欲如意足(よくにょいそく)・精進如意足(しょうじんにょいそく)・心如意
     足(しんにょいそく)・観如意足(かんにょいそく)からなります。
      欲如意足とは、神通力(じんつうりき)、すなわち、超人的な能力の土台となる、意欲ある禅
     定を務め行い、十分に身につけることです。
      精進如意足とは、神通力の土台となる、精進ある禅定を務め行い、十分に身につけることで
     す。 
      心如意足とは、神通力の土台となる、心ある禅定を務め行い、十分に身につけることです。
      観如意足とは、神通力の土台となる、細かな観察ある禅定を務め行い、十分に身につけること
     です。
      五根とは、悟りを開くための五つの働き、信根(しんこん)・精進根(しょうじんこん)・念
     根(ねんこん)・定根(じょうこん)・慧根(えこん)のことです。
      信根とは、ブッダの悟りと智慧を信じることです。
      精進根とは、様々な善くないことを断ち、様々な善いことを身につけるために、精進すること
     です。
      念根とは、注意深く思考して物事の道理・善悪を判断し、遠い過去になされたことや説かれた
     ことをよく記憶することです。
      定根とは、善悪苦楽の分別(ふんべつ)も何らの執著(しゅうじゃく)もない平等な境地にあ
     り、心を散らさず、一つの対象に集中することです。
      慧根とは、四聖諦をよく知り、苦を滅尽させることです。 
      五力とは、信力(しんりき)・精進力(しょうじんりき)・念力(ねんりき)・定力(じょう
     りき)・慧力(えりき)のことであり、五根のそれぞれが現実の力となったものです。
      七覚支とは、念覚支(ねんかくし)・択法覚支(ちゃくほうかくし)・精進覚支(しょうじん
     かくし)・喜覚支(きかくし)・軽安覚支(きょうあんかくし)・定覚支(じょうかくし)・捨
     覚支(しゃかくし)のことです。
      念覚支とは、常にブッダの教えを思い、それを忘れないことです。
      択法覚支とは、智慧によって法の真偽を見極め、真実の法を選ぶことです。
      精進覚支とは、緩むことなく、途絶えることなく努力することです。
      喜覚支とは、煩悩が無くなって、喜びが起こることです。 
      軽安覚支とは、心身共に軽やかとなることです。
      定覚支とは、心が安定することです。
      捨覚支とは、心が善悪苦楽の分別も、何らの執著もない、平等となることです。
      八支聖道とは、八正道のことです。

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 以上が、初期仏教における、ブッダの教えの主流と言ってもよいであろうと考えられる思想の内容ですが、最後に、初期仏典に説かれている他のいくつかの教えを意訳的に短くまとめたものと、ブッダの悟りについての私の見解を述べさせていただきたいと思います。



「筏(いかだ)の喩(たと)え」
 一人の旅人が、危険なこちらの岸から、大河(たいが)を渡って、安全な向こうの岸まで行こうとしましたが、その河には船も橋もありませんでした。そこで彼は、筏を作って向こうの岸に渡りました。渡り終えた後、彼は、この筏は大変役に立ったので、この先もこの筏を担いでいこうと考えました。その旅人の考えは適切でしょうか。そうではありません。では、彼がその筏を岸に置くか、河の中に残しておくかして、徒歩で先へ進んだらどうでしょうか。それは適切な判断と言えます。これと同じように、ブッダの教えといえども、それは、縁に因って生滅変化する、実体のない幻の如きものであるので、涅槃(ねはん)の境地に達したならば捨て去るべきであり、ましてや悪い教えについては、尚更(なおさら)のことであると説かれます。



「暗誦(あんじゅ)」
 ある一人の比丘が森の中に住んでいて、以前には、ブッダの教えの句をよく唱えていましたが、今はただ静かに坐っているだけでした。その森に住む天神が、「なぜ教えの句を唱えるのをやめたのか。」と問うと、その比丘は、「涅槃の境地に達するまでは、自分は教えの句を唱えた。しかし、今は涅槃の境地に達した。かの善き人(ブッダ)は、解脱したならば、そのことの他は、見ることも聞くことも思うことも、ことごとく捨て去るがよいと教えられた。」と答えました。
(※125)


「毒矢の喩え」
 マールンクヤプッタという比丘が、「この世界は常住、すなわち、永久であるか、無常、すなわち、束(つか)の間であるか。(※126)」、「この世界は限りがあるか、限りがないか。」、「霊魂と肉体は同じであるか、別々であるか。」、「人間は死後も存在するのか、存在しないのか」、「人間は死後、存在し尚且(なおか)つ存在しないのか」、「人間は死後、存在するのでもなく存在しないのでもないのか」という問題について、ブッダがはっきりと説いてくれないことを不服に思いました。そこで彼はブッダのもとへ赴(おもむ)き、「これらの問題に答えてくださったならば修行を続けますが、答えてくださらなかったならば還俗(げんぞく)(※127)いたします。もしこの問題について何もご存じないのなら、私にはわからないというのが正直というものでありましょう。」という様に言いました。
 するとブッダは、「私は、汝(なんじ)は私のところへ来て修行するがよい、そうすれば私はそれらの問題について説くであろうと言ったか、また、汝が私に、それらの問題について説いていただきたいと言ったか。」という様に言いました。マールンクヤプッタが「そのようなことはございません。」と答えると、ブッダは、「そうであるならば、汝は誰で、誰に不服をいうのか。マールンクヤプッタよ、誰かが、世尊(せそん)(※128)が私のために、それらの問題に答えてくださらないうちは修行をしないであろうと語ったとして、それらの問題が私によって説かれなかったならば、その人はそのまま命を終えなければならないであろう。それは、人が、毒矢で射られたようなものである。彼の家族や友人は医者を迎えにやるが、彼自身が、自分を射た者はどの身分で、どのような姓名で、どのような体格をした者か等のことがわからない間は、この矢を抜いてはならないと言ったとしたら、その人は、それらのことがわからないうちに、そのまま命を終えなければならないであろう。それらの問題の中のいずれかの見解が存在しても、それで解脱ができるわけではない。それらの問題の中のいずれかの見解が存在するときにも、やはり、生(しょう)・老(ろう)・病(びょう)・死(し)・愁(しゅう)・悲(ひ)・苦(く)・憂(ゆう)・悩(のう)はある。私は、現世においてそれらに打ち克つことを教える。だから、私によって説かれなかったこと、及び、説かれたことは、そのままに受けたもつがよい。『世界は常住である』等の見解は、私によって説かれなかった。なぜならば、それらは解脱に役立たないからである。『四聖諦』は私によって説かれた。なぜならば、その教えは解脱に役立つからである。だから、わたしによって説かれなかったこと、及び、説かれたことは、そのままに受けたもつがよい。」という様に説きました。


「ヴァッチャゴッタの問い」
 ヴァッチャ姓の遊行者(ゆぎょうしゃ)(※129)がブッダに、「友ゴータマは、『この世界は常住である。』という意見でしょうか。」という様に質問しました。それに対してブッダは、「私は『この世界は常住である。』とは言わない。」という様に答えました。次いでヴァッチャ姓の遊行者は、「友ゴータマは、『この世界は無常、すなわち、束の間である。』という意見でしょうか。」という様に質問しました、それに対してブッダは、「私は『この世界は無常である。』とは言わない。」という様に答えました。その後もヴァッチャ姓の遊行者は、「この世界は限りがある。」、「この世界は限りがない。」、「霊魂と肉体は同じである。」、「霊魂と肉体は別々である。」、「人間は死後も存在する。」、「人間は死後は存在しない。」、「人間は死後、存在し尚且(なおか)つ存在しない。」、「人間は死後、存在するのでもなく存在しないのでもない。」という見解についてのブッダの意見を問いましたが、ブッダは、それら全ての見解を斥(しりぞ)けました。そこでヴァッチャ姓の遊行者は、「友ゴータマは、どのような不利益を見て、これら全ての見解を斥けるのか」という様に質問しました。ブッダは、「これらの見解は、独りで決めた、明確な根拠のない判断に陥(おちい)っているのである。見解の密な絡(から)まりに縛(しば)られているのである。それは苦しみを伴い、解脱の役には立たない。私は、このような不利益を見るがゆえに、これらのどの見解にも基づかないのである。」という様に答えました。するとヴァッチャ姓の遊行者は、「友ゴータマは、独りで決めた、明確な根拠のない判断に陥ることはないのであろうか。」という様に問いました。ブッダは、「ヴァッチャよ、私には、独断に陥るということはなくなった。私は、縁、すなわち、原因に因(よ)って色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きの生起(せいき)があり、縁が滅びることに因って色・受・想・行・識の滅尽(めつじん)があると見る。だからして、私は、一切の迷いから離れ、執著(しゅうじゃく)することがなくなって解脱した、というのである。」という様に答えました。
 さらにヴァッチャ姓の遊行者は、「では、友ゴータマよ、そのように解脱した比丘は、死後、何処(いずこ)に往(ゆ)きて生まれるのか。」という様に問いました。ブッダは、「往きて生まれるというのは、当てはまらないであろう。」という様に答えました。続いてヴァッチャ姓の遊行者は、「では、友ゴータマよ、それならば、何処にも往きて生まれないのか。」という様に問いました。ブッダは、「往きて生まれないというのも、また当てはまらないであろう。」という様に答えました。その後もヴァッチャ姓の遊行者は、「往きて生まれ、尚且つ往きて生まれないのか。」、「往きて生まれるのでもなく、往きて生まれないのでもないのか。」という様に問いを進めましたが、ブッダは、どちらの問いにも、「それもまた、当てはまらないであろう。」という様に答えました。そうするとヴァッチャ姓の遊行者は、「友ゴータマよ、私は何もわからなくなってしまった。友ゴータマとのこれまでの関わりで得た確信すらも消え去ってしまった。」という様に言いました。
 するとブッダは、「汝(なんじ)がそう言うのも、無理からぬことであろう。この教えは、甚(はなは)だ深くて、悟るのが難しい。微妙であって思考の領域を超え、優れた知者のみがよく悟り知ることのできるところである。それは、他の教えに従っている者、異なる修行を修めている汝には、到底理解し難(がた)いであろう。だが、私は、汝に質問しよう。汝の思うがままに答えるがよい。ヴァッチャよ、これをどう思うか。もし汝の前に火が燃えているとしたら、汝は、『自分の前に火が燃えている。』と知るだろうか。」という様に言い且(か)つ問いました。ヴァッチャ姓の遊行者は、「私は、当然、『自分の前に火が燃えている。』と知るでしょう。」という様に答えました。次いでブッダは「では、ヴァッチャよ、もし汝が、『この火は何に因(よ)って燃えているのか』と問われたならば、なんと答えるであろうか。」と言う様に問いました。ヴァッチャ姓の遊行者は、「私は、『この火は薪(たきぎ)に因って燃えている』と答えるであろう。」という様に答えました。続けてブッダは、「もし汝の前のその火が消えたとしたら、汝は、『自分の前のその火は消えた』と知るだろうか。」という様に問いました。ヴァッチャ姓の遊行者は、「私は、当然、『自分の前のその火は消えた』と知るでしょう。」という様に答えました。さらにブッダはこの様に問いました。「では、もし汝に、『その火は、ここから何処(いずこ)に往(い)ったのか。東の方か、西の方か、北の方か、南の方か』と問う者があったならば、汝はどう答えるであろうか。」と。ヴァッチャ姓の遊行者はこの様に言いました。「友ゴータマよ、それは見当外れというものである。かの火は薪に因って燃えていたのであって、それが尽き、燃えるものがなくなったので消えた、というべきである。」と。それを聞いたブッダはこの様に言いました。「ヴァッチャよ、そなたの言う通りである。そして、私もまた、それと同じ様に説くのである。解脱した比丘の色・受・想・行・識、すなわち、肉体と、心と、それらの働きが消えた時、その人はすでになく、何処にも生ぜざるものとなるのである。その時、その比丘は色・受・想・行・識から完全に解脱するのである。それは、甚だ深く無量にして底のない大海のごとく、『往きて生まれる』というのも、『往きて生まれない』というのも、『往きて生まれ、尚且つ往きて生まれない』というのも、『往きて生まれるのでもなく、往きて生まれないのでもない』というのも当てはまらないのである。」と。



 ブッダの思想の根幹は、「人間の肉体と心をはじめとする全ての事物、すなわち、時間・空間・エネルギー・物質・無・人間が発見した数学や物理学の理(ことわり)・人間が作り出した思想や哲学等は、縁、すなわち、原因に因(よ)って、只々(ただただ)生滅変化し続けるだけの、実体、すなわち、本体・正体・実質のない、上辺(うわべ)だけのもの、幻の如(ごと)きものであって、苦、すなわち、自分の思い通りにならないものであるが、この『実体がない(※130)』という、『縁に因って何物も生み出されていないところ、存在するというのも存在しないというのも当てはまらないところ、それそのものを表現する事はおろか想像する事も出来ないところ、思考の領域を超えたところ』を正しく直観した時、すなわち、『実体がない』ということの本当の内容である『世界の実相』をハッキリと直観した時、人間は、『世界は幻の如きものであリ、真実には、何物も作り出されていない』ということの意味を正確に理解し、(作り出されていないものに執着する人間は誰もおりませんので)全ての事物に対する執著がなくなると同時に自分自身をも含めた全ての事物から解放されて、生まれてこの方味わったことのない絶対の安らぎ、すなわち、悟りの境地・涅槃・ニルヴァーナを得る。そして、そのままの状態で生涯を終えれば、心は新たな心を生み出すことなく滅尽し、何処にも生まれることがなくなり、無始無終の輪廻、すなわち、始まりもなく終わりもない生滅変化の流れから解脱する。
」というものです。
 以上をもちまして、私がブッダの思想の核心を探究した結果として得たところの知識等についての記述を終わらせていただきます。纏(まと)まりのない文章でありましたことは何卒ご容赦下さいますようお願い申し上げます。最後までお読み下さいましてありがとうございました。








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※125.  ブッダの思想においては、人の心に執われがあれば、その心は死ぬ時に新しい心を作り出して
     生まれ変わり、再び苦しみを受けます。それ故(ゆえ)に、以上の二つの教えは、「たとえそれ
     がブッダの教えであったとしても、それに執われてしまえば輪廻転生の原因となってしまうの
     で、悟りを開いた後は、速やかに捨て去るべきである。」ということを説いています。
※126.  ここでいう無常とは、縁起によって生滅変化するという意味の無常ではなく、『この世界は今
     一度きりで、後には断滅するものである。』という意味での無常であると思われます。
※127.  出家者が俗人に戻ることです。
※128.  ブッダのことです。
※129.  各地を遍歴する修行者のことです。
※130. 「実体がない」と言うことの意味は、縁によって人間の心に生じる、「無」や「空(くう)」等
     の概念やイメージや言葉、また、「禅定」や「悟り」等の縁によって得られる様々な心の状態
     (悟りの境地・涅槃・ニルヴァーナをも含みます)のことを指しているわけではありません。ブ
     ッダの思想においては、人間の心に生じる概念・イメージ・言葉・状態等は、たとえそれがブッ
     ダの教えに基づいたものであっても、全て、縁に因って生滅変化する、実体のない幻の如きもの
     となります。

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あとがき.

 ブッダの思想の根幹である「悟り」は現実のものであり、決して古代の幻ではありません。また、それを理解することは、現代日本人の平均的知力・学力ならば、強靭な意志と、初期経典等の集中的勉学のみで可能であると思われます。しかして、「悟り」は、その内容が「思考の領域を超えている」ため大変分かりづらい上に、苦労してそれを理解しても、それだけでは、特に生活上の問題が解決したり、一般的な利益を得られたりすることはありません(当然ながら神通力等は身につきません。)。
 ですがそれは、現代社会における、「ニヒリズム」すなわち「虚無主義」の蔓延を原因とした倫理の低下や、「新自由主義」に基づいた政策を原因とした長期に及ぶ貧困の中にあっても、人間の苦しみを合理的かつ根本的に消し去ってしまうものであると共に、何ものにも打ち勝って生き抜く力の「源泉」たりえるものであるので、やはり、それは、この時代においても大変に有益な事柄なのだと思われます。(しかして、「悟り」を理解し、苦を滅尽したからといって、仕事や家族、財産等を全て捨てて、古代インドにおける修行僧のように出家等をするということは、私は、現代の日本においては不自然なことであると思います。)
 また、「悟り」はその内容が著しく高度であることから、様々な方がそれを理解されることにより、そこから社会の進化に寄与する大変優れた発想・アイデア等が或いは現れるのではないかとも想像されます。
 私は、人類が現在の様々な問題を、その知性と理性でもって克服し、その文明をカルダシェフスケール(※131)にあるように宇宙文明へまで発展させ、さらにそれを極限と言えるレベルにまで進化させた時、そこにあるのは「ニルヴァーナ」なのではないかと思っています。私は、ブッダの「悟り」は究極の思想であり、人類に「至高かつ特異な利益」をもたらすものであると考えます。



あとがき2.

 

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※131.  1964年、ニコライ・カルダシェフ(1932年~2019年 旧ソ連の天文学者)が考え
     出した、宇宙文明のレベルを示す3段階のスケール。

     タイプⅠ 惑星文明 惑星で利用できる全エネルギーを使用できる文明
     タイプⅡ 恒星文明 恒星系で利用できる全エネルギーを使用できる文明
     タイプⅢ 銀河文明 銀河系で利用できる全エネルギーを使用できる文明

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参考文献:
中村元・紀野一義訳註 『般若心経 金剛般若経』 岩波文庫、1960年
     副島正光著 『釈迦 人と思想4』 清水書院、1967年
     中村元訳 『ブッダの真理のことば 感興のことば』 岩波文庫、1978年
     中村元訳 『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』 岩波文庫、1980年
     中村元訳 『仏弟子の告白』 岩波文庫、1982年
     中村元訳 『尼僧の告白』 岩波文庫、1982年
     中村元訳 『ブッダのことば スッタニパータ』 岩波文庫、1984年
     中村元訳 『ブッダ 神々との対話』 岩波文庫、1986年
     中村元訳 『ブッダ 悪魔との対話』 岩波文庫、1986年
     メアリー・M・ロジャース著 小倉泰訳 『目で見る世界の国々12 インド』 国土社、1992年

     多屋頼俊・横超慧日・船橋一哉編集 『新版 仏教学辞典』 法藏館、1995年
     中村元著 『広説 佛教語大辞典 上巻』 東京書籍、平成13年
     中村元著 『広説 佛教語大辞典 中巻』 東京書籍、平成13年
     中村元著 『広説 佛教語大辞典 下巻』 東京書籍、平成13年

     中村泰三編著 シグマベスト 『理解しやすい 地理B 【改訂版】』 ナツメ社、2003年 

     愛宕元編著 シグマベスト『理解しやすい 世界史B 【改訂版】』 ナツメ社、2003年
     渡辺研二著 『ジャイナ教 非所有・非暴力・非殺生ーその教義と実生活』 論創社、2005年
     貫成人著 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2009年
     廣澤隆之著 『図解雑学 仏教』 ナツメ社、2010年
     保坂俊司監修 『史上最強 図解 仏教入門』 ナツメ社、2010年
     増谷文雄編訳 『阿含経典1 存在の法則(縁起)に関する経典群 人間の分析(五蘊)に関す
     る経典群』 筑摩書房、2012年
     増谷文雄編訳 『阿含経典2 人間の感官(六処)に関する経典群 実践の方法(道)に関する
     経典群 詩(偈)のある経典群』 筑摩書房、2012年
     増谷文雄編訳 『阿含経典3 中量の経典群/長量の経典群 大いなる死/五百人の結集』 筑摩
     書房、2012年
     
友澤和夫(広島大学教授)監修 小田切英、神保裕子、鈴木しのぶ、吉田忠正、渡辺一夫執筆 
     『帝国書院 地理シリーズ 世界の国々2 アジア州②』 株式会社 帝国書院、2012年

     馬場紀寿著 『初期仏教 ブッダの思想をたどる』 岩波書店、2018年       
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「十二因縁」 http://ja.wikipedia.org>
     wiki>十二因縁 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「五蘊」 http://ja.wikipedia.org>wiki>
     五蘊>  2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「処」 https://ja.wikipedia.org>wiki>
     処 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「四諦」 https://ja.wikipedia.org>wiki>
     四諦 2022年4月1日
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     >八正道 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「三十七道品」 http://ja.wikipedia.org>
     wiki>三十七道品 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「戒」 https://ja.wikipedia.org>wiki>
     戒 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「五位」 https://ja.wikipedia.org>wiki>
     五位 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「プーラナ・カッサパ 」 
     http://ja.wikipedia.org>wiki>プーラナ・カッサパ  2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「マッカリ・ゴーサーラ」 
     http://ja.wikipedia.org>wiki>マッカリ・ゴーサーラ 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「アジタ・ケーサカンバリン」 
     http:/ja.wikipedia.org>wiki>アジタ・ケーサカンバリン 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「パクダ・カッチャーヤナ」 
     http://ja.wikipedia.org>wiki>パクダ・カッチャーヤナ 2022年4月1日
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「サンジャヤ・ペーラッティプッタ」 
     http://ja.wikipedia.org>wiki>サンジャヤ・ペーラッティプッタ 2022年4月1日
     
エマニュエル・トッド著 大野舞訳 『西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか』 
     株式会社 文藝春秋、2024年
     フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「カルダシェフ・スケール」
     http://ja.wikipedia.org>wiki>カルダシェフ・スケール 2024年12月25日
     その他多数。




 








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