ソクラテスの思想 ー徳の探求による、市民と国家の向上ー
桝谷情報事務所 代表 桝谷曜至(ますや てるよし)
公開日:2024年6月8日
文章の最終修正日:2025年3月12日
誠に僭越ながら、私がソクラテスの思想の核心を探究して得たところの知識等について述べさせていただきます。この情報は、学術的なものではございませんし、また、強靭な学力に裏付けられたものでもございませんが、その根幹において、必ずや、読者の皆様のご利益となるものであると確信いたしております。
ではまず最初に、ソクラテスが活動した「都市国家アテナイ」のあったギリシア共和国とその周囲の地理、ソクラテスが活動した時代までのギリシア・エジプト・ローマ・西アジアの歴史、ソクラテスの経歴等についての簡単な説明をさせていただきたいと思います。(※1)
ユーラシア大陸の西の端に位置するのがヨーロッパですが、その地域の東側は、アジアとの境にウラル山脈があり、西側・南側・北側は、それぞれ大西洋・地中海・北極海に面しています。その大部分は大陸部ですが、大西洋にはグレートブリテン島・アイルランド島・アイスランド島があり、地中海にもまた多くの島があります。
ヨーロッパの地形は大きく分けて、西岸にフィヨルド(※2)が広がっているスカンジナビア半島を主とする北部、大平原が広がる中央部、アルプス山脈(※3)から地中海沿岸にかけての山が多く平地の少ない南部に分けられます。その南部の東側、ヨーロッパ全体から見ると南東部に位置して地中海に突き出しているのがバルカン半島であり、その南の端にギリシア共和国があります。
ギリシア共和国は、北はアルバニア・マケドニア・ブルガリアと国境を接しており、東にはエーゲ海があってその東岸にトルコがあります(※4)。また、西は(北でアドリア海となる)イオニア海に面し、その西岸にイタリア半島があり(※5)、南は地中海に面して、その南岸に沿岸がリビア・エジプトとなるアフリカ大陸があります。そして、地中海の南東方向にはキプロス島が、南東岸には西アジアのシリア・レバノン・イスラエル・サウジアラビアがあり、南西方向のアフリカ大陸沿岸にはチュニジア・アルジェリア・モロッコがあります。(※6)
ギリシア共和国の国土は多くの島々を含むと共に、その大陸部は山がちで(※7)、河川による航行・灌漑というものができなくなっています。それ故に、各地域の陸上交通は不自由であり、多くの地域で海上交通の方が簡便となります。
ギリシア共和国北部の長い国境沿いには急峻な山地が連なっており、その東の端にトラキア地方があります。トラキア地方の西には、大部分が山地ですが、エーゲ海沿岸に広くて肥沃な土地を有し、また、その西部にピンドロス山脈がそびえるマケドニア地方があります。そして、その西向こうには、イオニア海に面し、その全域がほぼ山岳地帯であるエピロス地方があり、さらに、マケドニア地方西部の南側かつピンドロス山脈の東側には、エーゲ海に面し、マケドニア地方との間にギリシア最高峰のオリンポス山(※8)がそびえ、テッサリア平原が広がるテッサリア地方があります。ピンドロス山脈は南東へ延びてコリントス湾まで続いていますが、そのコリントス湾は、その西のパトラス湾と東西に長くつながっており、その両湾によって他の地域から離れた形で、山がちで海岸線が深く切れ込んでいる、大きなペロポネソス半島(※9)があります。ペロポネソス半島はその北東部でコリントス地峡(※10)により首都アテネのあるアッティカ地方とつながっており、そのアッティカ地方の北西にはボイオティア地方が、北にはエウボイア湾があります。エウボイア湾はボイオティア地方の沿岸に沿って北西に長細く延びており、その対岸にエウボイア島があります。
ギリシアの島々は大きく4つに分けられます。ギリシア本土の西岸沖には、コルフ島、イタカ島、ザキントス島等からなるイオニア諸島があリ、アッティカ地方の南東沖にはキクラデス諸島がまとまってあります。トルコのエーゲ海沿岸沖には、ロドス島等からなるドデカネス諸島が南東に長く連なっており、テッサリア地方の沖合からトルコ沿岸までの海域にはスポラデス諸島の島々が点在しています。
ギリシア最大の島であるクレタ島はエーゲ海の南端にあり、それは全体に山がちで、中央部には島の最高峰であるイディ山(※11)がそびえています。
ギリシアの気候は、その国土のほとんどが地中海性気候であり、夏は暑さが厳しく乾燥し、冬は雨が降って湿潤となります。農業は、小麦・綿花等の様々な農作物が栽培されますが、特に夏の乾燥に強いオリーブ・ぶどう・オレンジ等が栽培されます。また、羊等の放牧がおこなわれています。
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※1. 古代ギリシア人は多くのポリス、すなわち、都市国家に分立し、統一国家というものをつくりま
せんでした。それ故に、地理につきましては、現在のギリシア共和国とその周囲のものを記述いた
しました。
※2. 峡湾(きょうわん)。氷河の侵食をうけた氷食谷(ひょうしょくこく)に海水が入って沈水した
ものです。
※3. アフリカ大陸北部からヨーロッパ南部、西アジア、中央アジア南部、南アジア北部、東南アジア
西部まで続く、新期造山帯であるアルプス=ヒマラヤ造山帯に属する山脈です。最高峰はフランス
とイタリアの国境に位置する、標高4804メートルのモンブラン山となります。
※4. トルコとは北東のトラキア地方でも陸続きで国境を接しています。トルコの国土は、黒海とエー
ゲ海との間の海峡地帯を挟んでヨーロッパ側とアジア側とに分けられますが、その国土の大半であ
るアジア側のトルコをアナトリア、すなわち、小アジアといいます。トルコは東でグルジア・アル
メニア・イラン・イラクと、南でシリアと国境を接しています。またその南の国境の一部は地中海
によって区切られており、その向こうにはキプロス島が、南岸のアフリカ大陸にはエジプトがあり
ます。
※5. イタリア半島の西、ティレニア海・地中海の向こうにはイベリア半島があります。
※6. 地中海は、その西の端で、スペイン及びイギリス領ジブラルタルとモロッコとの間にある海峡で
あるジブラルタル海峡によって大西洋とつながっています。
※7. それ故に、耕地面積は小さくなります。
※8. 標高は2916・9メートルです。
※9. この地にはかつて、有名な都市国家スパルタや、古代オリンピックがおこなわれたオリンピュア
がありました。
※10. 現在は運河によりコリントス湾と半島東側のサロニコス湾がつながっています。
※11. 標高は2456メートルです。
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ここからは、ギリシア・西アジア等の歴史について述べさせていただきたいと思います。
古代ローマ人はイタリア半島から東の方をOriens(オリエンス)、すなわち、太陽が昇る地方と呼びましたが、そのことを起源として、後世のヨーロッパ人は、インダス川・中央アジア南部から小アジア・エジプトに至るまでの東方世界、すなわち、西アジア中心の広い範囲をオリエントと呼びました。そして、この地域こそが、古代世界においては、最も先進した地域でした。
BC7000年頃、西アジアの「肥沃な三日月地帯(※12)」で最初の農耕・牧畜が始まりました。そこでは土器が発明され、伐採(ばっさい)等のために磨製石斧(ませいせきふ)、すなわち、石器が使用されました。人々は農耕の為に一定期間定住するようになり、やがて、同じ祖先を持つという意識によって結ばれた血縁集団、すなわち、氏族(しぞく)が村落を形成し、土地・道具を共有して共同で農耕をおこなうようになりました(※13)。
BC4000年ごろより、メソポタミア南部で大河を利用した灌漑農業(かんがいのうぎょう)がおこなわれるようになり、その結果として多くの村落が協力しあい、血縁よりも、広い地域における地縁的な結びつきが強まっていきました。人口は増加し、大きな村落が各地にあらわれ、氏族社会の中で家族が生産の単位となり、土地・道具・生産物の私有が始まり、私有財産というものが発生しました。そして、それほど時が経たないうちに、有力な氏族を中心として、より大きな集団である部族が現れました。
BC3500年以後、西アジアで青銅器が発明されると生産力が向上し(※14)、交易や武力征伐が活発となり、その為に部族的なまとまりが進んで、やがて都市国家が誕生しました。都市国家では、貴族・平民・奴隷という階級が生まれ、交易等の事柄を記録する為に文字が発明されました。
エジプトでは、ナイル川の河谷(かこく)とデルタ、すなわち、河口の三角州に早くからハム語族が定住していましたが、その地域は、閉鎖的な地形である為に異民族の侵入を受けることが少なく、大体において統一と独立を維持することができました。(※15)
BC4000年頃から、上エジプト、すなわち、ナイル川中域、及び、下エジプト、すなわち、ナイル川河口・デルタに多くのノモス(※16)が形成され、やがてBC3000年頃、この地に世界最古の統一王朝が成立しました(※17)。古代エジプトの王はファラオと呼ばれ、それは神の子として国土を所有し人民を支配する、神権的な専制君主でした。古王国時代のBC27世紀~BC26世紀、メンフィスの北方のギザにクフ王・カウラ王・メンカウラ王のピラミッドが建造され、古王国は最盛期を迎えましたが(※18)、その後、地方貴族の進出によって衰退していきました。
先ほども一部述べましたように、メソポタミアでは、北部と西部の山地及びアラビアの砂漠に、主にセム語族が住んでおり、ティグリス・ユーフラテス川の沖積平野(ちゅうせきへいや)において、早くから灌漑農耕がおこなわれ、やがて都市国家が形作られましたが、この地域は開放的な地形である為、周囲から遊牧民等が次々に侵入し、統一と分裂が繰り返されました。
BC2700年頃までに、メソポタミア南部に、シュメール人(※19)がウル・ウルク・ラガシュ等の多数の都市国家を形作り、王が最高の神官として神権政治をおこないました(※20)。
BC2400年頃、セム語族のアッカド人がシュメール人の都市国家を支配してメソポタミア全域を含む統一国家アッカド王国を作り上げました(※21)。しかし、その統一はほどなく破綻し、再びウル等の都市国家同士が覇権を争いました。
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※12. メソポタミア、すなわち、ティグリス川とユーフラテス川の間の地域から、シリア・パレスチ
ナを経て、エジプトのナイル川流域に至る地域のことを言います。
※13. この、原始農耕文化が現れた段階を考古学では新石器時代といいます。原始農耕文化は、
BC5000年頃から東西に波及しました。
※14. 青銅器も西アジアから世界へと広がりました。
※15. ナイル川は、雨が少ないこの地域においての貴重な水源となり、また、毎年の定期的な河川の
氾濫(はんらん)は天然の施肥・灌漑となりました。ギリシアの歴史家ヘロドトスはこのことを
「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」といいました。
※16. 部族国家または都市国家のようです。
※17. 首都は下エジプトのメンフィス。この王朝に続くエジプトの各王朝は、古王国時代、中王国時
代、新王国時代に整理されます。
※18. この時代をピラミッド時代といいます。
※19. 民族系統は不明です。
※20. ティグリス・ユーフラテス川は、定期的に増水し、しばしば洪水を起こしました。シュメール
人の『ギルガメシュ叙事詩』等には洪水伝説があり、それは『旧約聖書』の中のノアの洪水の原
型とされています。
※21. 王国を樹立したサルゴン1世は「四方世界の王」と称しました。
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BC2000年頃、古代地中海世界では、海上貿易によって富が蓄積されたエーゲ海周辺(※22)に、世界最古の海洋文明であるエーゲ文明が生まれました。そこにおいてまず栄えたのは、クレタ島のクノッソスを中心としたクレタ文明でした(※23)が、その文明は開放的で明るく、平和なものであり、宮殿には城壁というものがなく、その宮殿の壁や壺には人物や海洋生物が描かれました。(※24)(※25)。また、同じ頃から、東方方言群に属するギリシア人の一派アカイア人が南下し、ギリシア本土に定住しました。
BC21世紀頃、エジプトでは新王朝(※26)が統一を回復させ中王国時代が始まりましたが、BC1700年頃、シリアから西アジアの遊牧民ヒクソスが馬と二輪戦車を用いて侵入し、一時期その地域を支配しました。
BC1800年頃、メソポタミアではセム語族の遊牧民アムル人が、統一国家バビロン第一王朝(※27)を樹立しました。そして、その第6代の王ハンムラビ(在位BC1728年~BC1686年)はメソポタミアの大部分を統一しハンムラビ法典(※28)を制定しました。(※29)
BC18世紀頃、インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人は、小アジアにヒッタイト王国(※30)を樹立しましたが、BC16世紀、バビロン第一王朝はそのヒッタイト人の攻撃によって滅亡し、その後はカッシート人に支配されました。
BC1600年頃、ギリシア人の一派アカイア人は、ミケーネ等にクレタ文明やオリエント文明の影響を受けてミケーネ文明を築きました。その文明は巨石による城塞を持ち、戦闘的で軍事に関心が強く、BC1400年頃、クレタを支配するようになり、小アジアのトロイア(トロヤ)にも勢力をおよぼしました。(※31)
BC1570年頃、エジプトでは新王朝がヒクソスを追放して独立を回復させ、新王国時代が始まりました。そしてBC15世紀、トトメス3世はパレスチナ・シリアを征服して領土を拡大し、エジプトの帝国時代を築きました。BC14世紀前半、アメンホテプ4世は、新たな国家神アトンを奉じて新首都アマルナを造営し、名をイクナートンと改めました(※32)。しかし宗教改革は失敗し、次のツタンカーメン王は首都をテーベに戻しました。(※33)
バビロン第一王朝を滅ぼした後、ヒッタイト王国は一時弱体化しましたが、BC14世紀にはバビロニアのカッシート人・北メソポタミアのミタンニ王国(※34)・エジプトの新王国等と勢力を争いました。そして、BC1200年頃、「海の民」と呼ばれる民族により滅ぼされました。(※35)
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※22. 複雑な海岸線による良港に恵まれ、島々が多く存在する地域となります。
※23. 民族の系統は不明です。
※24. ギリシア人は、クレタ文明の複雑な構造を持つ宮殿をラビリンストと呼びましたが、これが、
英語の「迷宮」を意味するlabyrinthの語源となりました。
※25. クレタ文明では線文字Aができましたが、現在未解読です。
※26. 首都はテーベです。
※27. 古バビロニア王国やバビロニア王国などと呼ばれます。首都はバビロンです。
※28. 成文法。「目には目を」の復讐法は『旧約聖書』にも影響を与えました。
※29. 古代メソポタミアの宗教は多神教であり、多くの都市神・部族神がありました。かの地の人々
は現世への関心が強く、呪術が盛んで、未来を予知するために占星術が発達しました。また、天
文学が発達し、太陰暦(陰陽暦)・七曜制がおこなわれました。彼らは六十進法を発明し、1日
を24時間、1時間を60分、円周を360度に区分し、また楔形文字を発明しました。
※30. BC17世紀に首都ボアズキョイを建設しました。
※31. ミケーネ文明では線文字Bができました。
※32. それは、アモン=ラー(国家神)の神官団の勢力が強まったことへの対抗措置でした。
※33. 古代エジプトの宗教は太陽神ラーを主神とする多神教であり、霊魂の不滅が信じられ、死者を
ミイラとして保存し、また、オシリス神話が作られました。古代エジプト人は1年を365日6
時間・12ヶ月とする太陽暦を使用し、十進法、象形文字(表意文字)、紙(パピルス製)を作
り出しました。また、測地術や実用医学を発達させました。
※34. 民族系統不明のフリル人がインド=ヨーロッパ語族の王のもとに北メソポタミアに作り上げた
王国です。
※35. ヒッタイト人はBC1400年頃、最初に鉄器を使用しました。オリエントが鉄器時代に入っ
たのはBC1000年頃からです。
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ギリシアにおいては、BC1200年頃から西方方言群に属するドーリア人が南下し、ペロポネソス半島に入ってミケーネ文明を滅ぼし、クレタ島・小アジア西岸南部にも入りました(※36)。その影響を受けてアカイア人はエーゲ海の島々及び小アジア西岸に移住しました。これよりのち約4世紀の間、ギリシアは混乱の暗黒時代となりましたが、それは同時に、フェニキア文字からアルファベットを創り出しそれが普及する等の転換期でもありました。
BC12世紀頃から、セム語族のフェニキア人が現在のレバノン海岸にティルス・シドン等の多くの都市国家を建設し、地中海貿易において活躍してカルタゴ等の植民市を建設しました。(※37)また、セム語族のアラム人がダマスクスを中心とした王国であるアラム王国を樹立し、オリエント地域の内陸貿易に活躍しました。(※38)
BC15世紀頃、セム語族の遊牧民であるイスラエル人(※39)が、カナーン(※40)に入りました。その一部はエジブトに移住しましたが、エジプト新王国の王に迫害され、BC1230年頃、モーセに率いられて再びカナーンへ移りました(※41)。BC1000年頃、イスラエル人の統一王国であるヘブライ王国が成立し、BC10世紀、ダビデ王とその子のソロモン王の時代、首都イェルサレムを中心に繁栄を極めました(※42)。しかし、ソロモン王の死後のBC926年、王国は、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
BC1000年頃までにインド=ヨーロッパ語族に属するイタリア人の諸族が、鉄器とともに中部イタリアを中心として定住し、その後、民族系統不明であるエトルリア人が北部・中部イタリアにやって来て定住しました(※43)。
BC8世紀頃、イタリア人の一派のラテン人が、ティベル河畔に小都市国家ローマを建国しました(※44)。ローマは始めは王政であり、エトルリア人の王に支配されていましたが、BC6世紀末にこの王を追放して共和制を確立しました。ローマでは多くの土地等を所有する名門のパトリキ、すなわち、貴族が政治等の権利を握って政権を独占し、中小農民がその主体であるプレブス、すなわち、平民には参政権がありませんでした。そして、プレブスは、パトリキとの通婚もできませんでした。
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※36. ドーリア人はギリシアに鉄器をもたらしました。
※37. フェニキア人は貿易等のために各民族の文字を改良し、22字の表音文字を作りました。
※38 アラム語は国際商業語となりました。またアラム文字は、西アジア・中央アジア等の民族の文
字の母体となりました。
※39. 他民族からはヘブライ人と呼ばれ、後にユダヤ人といわれました。
※40. パレスチナの古名です。
※41. このことを出エジプトといいます。モーセはエジプトからの帰途、シナイ山で唯一神ヤハウェ
から十戒を与えられたといいます。
※42. ソロモン王はイェルサレムにヤハウェの神殿を建造する等「ソロモンの栄華」を誇りました。
※43. 南部イタリア・シチリアにはまずフェニキア人(カルタゴ人)が、次いでギリシア人が植民市
を建設しました。
※44. 伝説では、狼に育てられたロムルスとレムスという双子の兄弟がローマを建国したといいま
す。
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BC8世紀頃、ギリシアに多くのポリス、すなわち、都市国家が作り出されました。
ギリシアはその暗黒時代において、各部族が各王のもとに村落を形成し、自由民に土地が平等に分配されていましたが、鉄器の使用等によって生産力が大きくなると、私有財産の格差が生じ、階級社会が現れました。
貴族は大土地所有者・重装騎兵(※45)として政治と軍事を担い、自分達の居住地の周囲に平民、すなわち、商工業者・農民を住まわせましたが、ポリスは、このシノイキスモス、すなわち、集住を元として誕生しました。
ポリスは、城壁に囲まれた都市部と、その周囲の農村部とからなり、都市部の中心のアクロポリスという小高い丘には、ポリスの守護神を祭る神殿が建てられました。そして、その麓にはアゴラ、すなわち、広場があり、市場・会議等、公共生活の中心となっていました。(※46)
ポリスは、それぞれが主権を持つ独立国家であり、ギリシア人は最後まで統一国家というものを作りませんでした(※47)。しかし彼らは、共通の言語と宗教(※48)、オリンピア競技会、隣保同盟(※49)等によって、同じ民族であるという自覚を持っており、自分達のことをヘレネス、自分達の国土をヘラスと呼ぶとともに、異民族をバルバロイ(※50)と呼びました。
ギリシア人はポリスの形成以後、BC8世紀~BC6世紀に黒海・地中海の沿岸に盛んに植民活動をおこない、フェニキア人に変わって西地中海の商業権を握りました。
北部メソポタミアでは古くから、セム語族のアッシリア人が、アッシュール等の都市国家を作っていましたが、やがて彼らは、バビロニアの文化やヒッタイト人の鉄器を学び取ることにより、強力な軍事力を持つ王国を形成しました。BC8世紀後半、サルゴン2世の時アッシリアは大発展を遂げ(※51)、BC671年、アッシュール=ハンニバル王はエジプトを征服してオリエントの大部分を統合しました(※52)。しかし、アッシリアの王は武力によって被征服民を抑圧したため諸民族の反抗をまねき、BC612年、メディア・新バビロニアの連合軍に首都ニネヴェを征服されて滅亡しました。
アッシリアの滅亡後には、四つの国が分立しましたが、その一つが、セム語族のカルデア人の国、新バビロニア(カルデア)であり、この国はメソポタミアからシリア・パレスチナを征服し、ユダ王国を滅ぼしました(※53)。そして、その首都バビロンでは、宮殿・神殿・ジッグラト(※54)・空中庭園等が建設されました。他の三国は、インド=ヨーロッパ語族のイラン人の国であるメディア、小アジアの(民族系統不明の)民族の国リディア(※55)、エジプト(※56)でした。
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※45. 馬や武具は高価で、貴族でなければ自前で揃えることができませんでした。
※46. ポリスは海外の植民地を含め1000以上もできましたが、その大部分は人口が1万人以下で
した。ただ、例外としてアテナイは、20~30万人の人口があり、その面積は神奈川県ほどあ
りました。
※47. その理由は、ギリシアの地形が山がちで各地域が分断されていたこと、灌漑農業がおこなわれ
なかったこと等にあると思われます。
※48. 自然崇拝に起因する多神教であり、オリンポスの12神、すなわち、主神ゼウス、ゼウスの妻
ヘラ、太陽神アポロン、海神ポセイドン、火神へファイストス、軍神アレス、商業神ヘルメス、
かまどの女神ヘスティア、知恵の女神アテナ、美の女神アフロディテ、月の女神アルテミス、大
地の女神デメテル等が信仰されました。神々は不老不死ですが人間と同じ姿や思い・感情を持つ
とされ、特定の経典はなく、特権的神官もいませんでした。
※49. ポリス間の宗教的な同盟です。
※50. 「わけのわからぬ言葉を話す者」の意味であり、英語のbarbarianの語源です。
※51. BC722年、北イスラエル王国はアッシリアに征服されました。
※52. 首都ニネヴェには王宮や世界最古の図書館が建設されました。
※53. この時、ユダ王国の住民が新バビロニア王国によってバビロンに移住させられ、強制労働に服
すという事件、バビロン捕囚がおこりました。
※54. 『旧約聖書』に登場するバベルの塔といわれています。
※55. BC7世紀、この国で初めて鋳造貨幣が作られました。
※56. 新王朝の次の末期王朝にあたります。
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BC7世紀、ギリシアにおいて、最初は王政であった、イオニア人のポリスのアテナイで、貴族から選ばれた9人のアルコン、すなわち、執政官が政治等を掌握しました。そしてBC7世紀後半、アルコンであるドラコンが従来の慣習を成文化し、貴族による法の勝手な解釈と運用を規制しようとしました。
BC6世紀初め、平民の貧富の差が大きくなって政治への不満が高まると、アルコンに選ばれたソロンが改革を断行しました。その内容は、「中小農民の没落・奴隷化を防止するため債務を帳消しにすること及び身体を抵当とした借財の禁止」、「市民を財産に応じて四つの階級に分け、それぞれに応じて参政権と軍務を課すこと」でした。
BC6世紀中頃、中小農民の支持を受けたペイシストラトスが、貴族政権を倒してティランノス、すなわち、僭主となり、農民の保護等をおこないました。
BC6世紀末、貴族出身のクレイステネスが、多数のデーモス、すなわち、区からなる地域的な10部族制の編成、民会等の組織の整備、オストラシズム、すなわち、陶片追放の制度の制定等の改革をおこない、アテナイの民主政治の基礎を築きました。
一方、ドーリア人のポリスであるスパルタでは、先住民を征服してポリスを形成したため、少数のドーリア人が多数の先住民を支配する形となり、厳しい身分制度がしかれました(※57)。そこでは、支配層であるドーリア人のスパルタ市民、すなわち、完全市民が、重装歩兵軍を形成して政治・軍事に専念し、それぞれのクレーロス、すなわち、分配地を奴隷(※58)に耕作させました。その社会の仕組みは、王政ではありましたが実質は貴族政治であり、民会等の組織が存在して市民の間では民主制が現実化していました。そして支配層である完全市民は、軍国主義の体制をとりました。また、商工業や農業に携わるペリオイコイ、すなわち、ポリスの周辺部に住む人々は、自由身分で参政権がなく従軍の義務を負いました。(※59)
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※57. 伝説では、立法家リュクルゴスが国政の基本を定めたとされます。
※58. 征服された先住民はヘイロータイまたはヘロット、すなわち、国有の奴隷とされました。
※59. ギリシアの各ポリスでは植民活動・貿易が盛んになると同時に、貨幣経済が普及し、商工業が
大いに発展しました。そして、それにともない平民である商工業者の中に富裕者が現れました。
また、手工業が発達して武器・武具が安価になったため、これも平民である中小農民が重装歩兵
として軍事の主力となってきました。これらの流れから、平民は貴族に対し政治への参加を要求
するようになりました。また、ポリスの市民は、家事・生産等の労働を奴隷に任せ、自分達は政
治・軍事等の公共生活や、文化活動に専念しようとする傾向が強くありました。奴隷は個人所有
が普通で、その数は総人口の3分の1でした。奴隷には、ギリシア人に征服された先住民、債務
が返済できずに奴隷となった者、海外から奴隷として購入した異民族等がいました。
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BC6世紀、タレス(BC624頃~BC546頃 小アジア、イオニア地方のギリシア植民都市ミレトスの人)により、哲学が始まりました。それは自然哲学であり、万物のアルケー、すなわち、根源を探求し、また、万物を支配するロゴス、すなわち、理法を追求するものでした。
ギリシア市民は奴隷を使役することによりスコレー、すなわち、ひま・閑暇(かんか)を持つことができましたが、実にこのスコレーこそが、彼らに自由な精神活動をもたらし、哲学誕生の要因となりました。特にミレトスは、「エジプト・バビロニア等の先進文明を受容するのに適した場所にあった。」、「政治的に独立していてギリシア本土の古い因習等に縛られることが少なかった。」、「植民・貿易活動の中心地であったが故に諸外国の風俗・習慣・仕組みを比べ合わせてよく検討できた。」、「商業・航海等の活動が合理的な思考の発達を必要とした。」等の事情から、自然を神話から切り離し、合理的に理解・説明しようとする人々を生み出しました。なお、それとは別に、南イタリアのギリシア植民都市でも、ミレトスのそれとは異なった傾向の哲学が起こりました。
タレスは万物の根源を「水」であるとし、彼の弟子であるアナクシマンドロス(BC610年頃~BC547年頃)は「アペイロン」、すなわち、「無限のもの」がそれであるとしました。哲学者・数学者・宗教家のピタゴラス(BC6世紀頃 小アジア西沿岸中部の島、サモス島出身であり、イタリアのギリシア植民都市クロトン在住の人)は、「数」が根源であるとし、パルメニデス(BC6世紀後半 南イタリア、エレア出身)は「不動の存在」を説きました。ヘラクレイトス(BC6世紀後半~5世紀初め 小アジアのイオニア地方エペソスの人)は「万物は流転する」と考え「火」こそが万物の根源であるとし、デモクリトス(BC5世紀後半 トラキア地方アブデラの人)は「アトム」、すなわち、原子こそがそれであるとしました。
BC550年、現在のイランの国内では、メディア王国に服属していたインド=ヨーロッパ語族のペルシャ人がアケメネス朝のもとに独立し、メディア王国を倒しました。アケメネス朝は、さらにリディア・新バビロニアを滅ぼし、BC525年、エジプトを征服して属州とし、後にダレイオス1世(在位BC522年~BC486年)が、エーゲ海北岸からインダス川におよぶ大帝国、すなわち、ペルシャ帝国を建設しました。彼は、各州にサトラップ(※60)を置き、その監視のために「王の目」「王の耳」と呼ばれる監察官を送り込みました。そして、被征服民に対して寛大な政策をとり、各民族の宗教・風習を尊重しました。(※61)。
またBC7世紀、ゾロアスター教(※62)がおこり、アケメネス朝の歴代の王に尊崇されました。さらに、アケメネス朝は、楔形文字を表音文字化しペルシャ文字を作りました。
BC6世紀半ば、アケメネス朝ペルシャは、小アジアのイオニア地方のギリシア人植民都市を支配下に入れましたが、BC500年からそれらの諸都市がミレトス市を中心として反乱を起こし(※63)、ギリシア本土のアテナイ等がそれを支援しました。そこで、ダレイオス1世は、この反乱を鎮圧した上で、ギリシア本土にも遠征軍を送り込みました(※64)。
BC492年の第一回遠征では、ペルシア軍は、トラキア・マケドニアを征服しましたが、アトス岬沖で嵐のために海軍が壊滅して引き上げました。BC490年の第2回遠征では、ペルシア軍は海上からギリシアに上陸しましたが、アテナイの重装歩兵軍がマラトンの戦いでこれを撃退しました。BC480年~BC479年の第3回遠征では、ダレイオス1世の王位を継いだクセルクセス1世が、テルモビレーの戦いでスパルタ軍を破ってアテナイを略奪しましたが、アテナイの名将テミストクレスが市民を率いてサラミスの海戦でペルシア軍を破り、翌年、スパルタ・アテナイの連合軍がプラタイアの戦いでペルシア軍を撃退しました。(※65)
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※60. 知事等と訳されます。
※61. ユダヤ人がバビロン捕囚を解かれて帰国し、ユダヤ教を育てることができたのはこの政策によ
るところが大きいと言えます。ユダヤ人は、出エジプト・バビロン捕囚等の民族的苦難の中で、
唯一神ヤハウェに対する信仰を強め、バビロン捕囚から解放されて帰国した後、ヤハウェの神殿
を再建し、儀式等の規則を定め、ユダヤ教を誕生させました。その聖典が『旧約聖書』です。古
代オリエントの諸民族の宗教のうち、ユダヤ教のみが一神教であり、それは排他的な選民思想と
強烈なメシア、すなわち、救世主待望の観念を持ち、戒律主義の傾向が強く、律法を厳守し、聖
像崇拝を否定しました。
※62. 火を神聖なものとするので、拝火教ともいいます。その教えは「世界は、最高神アフラ=マズ
ダ、すなわち、光明と善の神と、アーリマン、すなわち、暗黒と悪の神が闘争する場所であり、
最後の審判で悪人は地獄へ落ち、善人は天国で永遠の生命を得る。」とされます。この最後の審
判の考え方はユダヤ教に入り、キリスト教にも継承されました。
※63. イオニアの反乱と言います。
※64. ペルシア戦争と言います。
※65. この戦争は、オリエントの強大な専制国家と、ギリシアの自由を基本的な傾向とするポリス社
会との対決であり、また、初の東西世界の対決でした。
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BC478年、ペルシアの報復に備えるため、エーゲ海一帯の諸ポリスはアテナイを盟主としてデロス同盟を結成しました。その結果、アテナイはギリシア最大の経済力を持つと共に、同盟諸都市に支配力を及ぼし、その同盟はアテナイ帝国と言えるものとなりました。
アテナイでは、ペルシア戦争以後、無産市民の政治参加が可能となる等、民主化が進展し(※66)、人口の約1割ほどの、両親がともにアテナイ人である18歳以上の男子に市民権が与えられ、彼らが直接参加する民会が、政治の最高決定機関となりました。また、将軍職等の特別な職務以外の官職は市民に開放され、裁判は、抽選で選ばれた陪審員で構成される民衆裁判所がおこないました。
そのような、アテナイで完成した民主政治の制度は、各ポリスに広がっていきましたが、そうしたなか現れたのが、ソフィストといわれる人々でした。民主政治では市民が討論によって法律等を決めたので、そこに弁論術や基礎教養が必要となり、ソフィストは職業教師としてそれらのことを人々に教えました。彼らは諸国を知る国際人であったため、物事の価値観はポリスによって異なるということをよく知っており、それ故に、絶対の善悪というものの存在を認めませんでした。
初期のソフィストを代表するプロタゴラス(BC5世紀中頃の人)は、「人間は万物の尺度である」と言い、真理は一人一人の人間によって違っているので、ただ、議論に勝った者の意見が正しい見解として世の中にとおるだけであるとして相対主義の立場に立ち、ゴルギアス(BC5世紀後半~BC4世紀前半の人)は、「なにものも存在しない、存在しても認識できない、認識しても伝達できない」といって、真理が理性的に認識でき、全てのものに共通に当てはまるということを否定し、理性的な認識を断念する懐疑論の立場に立ちました。
BC5世紀以後、ローマでは平民が重装歩兵として国防等に大きな役割を果たすようになりました。彼らは貴族の政権独占等を不服として、貴族との身分闘争を行い、その権利を拡大していきました。
BC494年、平民はローマ近郊にある聖山に移って新しい都市国家を作ろうとしましたが(※67)、元老院は彼らに譲歩し、平民が護民官を選ぶこと、護民官は平民に不利な政治を拒否する権限を持つことを認め、護民官を選ぶための平民会が出来上がりました。そして、BC450年頃、十二表方(※68)が制定され、法律が平民にも公表され、これによって貴族による法の独占は破られました。
BC443年、アテナイの将軍職についたペリクレス(BC490年頃〜BC429年、政治家)は、民衆を指導して民主政治を徹底させながら、これを上手に用いました(※69)。それによってアテナイは大いに発展し、ギリシア文化はその最盛期を迎えました。
しかし、アテナイの強圧的な支配に対して、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟が反抗し、BC431年からBC404年の間、ギリシアを二分するペロポネソス戦争が続きました。戦争初期、アテナイでペストが流行してペリクレスが死亡すると、アテナイの民衆は煽動(せんどう)政治家(※70)に煽られて衆愚政治(※71)に陥り、その結果、アテナイはスパルタに敗北しました。
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※66. ペルシア戦争で重装歩兵として戦った中小農民及び、サラミス海戦で軍艦の漕ぎ手であった無
産市民が発言力を強めました。
※67. 聖山事件と言います。
※68. ローマ最初の成文法です。
※69. ペリクレスが将軍職に就いていた期間をペリクレス時代と言います。
※70. デマゴーゴス、デマゴーグ。「デマ」demagogyの語源です。
※71. 多数の愚民による政治。アテナイにおける堕落した民主政治を指します。
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ソクラテス(BC470年頃~BC399年)が生きたのは、まさにソフィストが活動していた、アテナイの最盛期とその後の衰退期でした。
彼はソフィストとは異なり、普遍的真理の存在を認め、他者との対話によりそのことの合理的追求を実践すると共に、万物の根元や、万物を支配する理法を探究する自然哲学ではなく、「人間は、いかに生きるべきか」を問うた最初の哲学者でした。
伝えられているところによると、ソクラテスはギリシア連合軍がペルシャ戦争に勝利してから約10年後、アテナイのアロペケ区に生まれました。父のソプロニスコスは彫刻師あるいは石工であり、母のパイナレテは産婆でした。彼は、国法に定められている通り、学芸と体育の教育を受けました。ソクラテスが生まれた当時のアテナイは未(いま)だペルシャ戦争の痛手から回復しておらず、ポリスの復興が完成したのは、ソクラテスが13歳頃のBC457年でした。
青年期のソクラテスがどのような人物であったのかはよくわかっていませが、彼は、若いころ自然哲学に熱中し、しかして、自分にはその才能がないということに思い至り、その研究をやめたといいます。そしてまた、当時アテナイに在住し、万物を秩序づけている原因は「ヌース」、すなわち、「理性」であると説いた自然哲学者のアナクサゴラス(BC500年頃~BC428年頃)に期待しましたが、彼のいう「ヌース」が、人間の考える道徳的意味での「善」とは何の関係もない、単なる物理的働きであるとわかって失望したといいます。
ソクラテスが27歳頃のBC443年、ペリクレスが将軍職につくのと同時にペリクレス時代が始まり、アテナイはいよいよその最盛期を迎えました。しかし、繁栄の時は長く続かず、BC431年、ソクラテスが39歳の頃、アテナイを盟主とするデロス同盟とスパルタを盟主とするペロポネソス同盟との間に、ペロポネソス戦争が勃発しました。
ソクラテスは、BC430年、40歳の頃、ポティダイアの戦い(BC432年~BC430年)において初めて戦争に参加しました。そして、この戦いにおいて彼は、負傷した弟子のアルキビアデス(BC450年頃〜BC404年 政治家・軍人)を助けました。同時期に、アテナイに疫病が発生し、多くのアテナイ人が死亡しました。
BC429年、ソクラテスが41歳の頃、流行中の疫病によりペリクレスが死亡しペリクレス時代が終わりました。
BC424年、46歳の頃、ソクラテスはデリオンの戦いにホプリステース、すなわち、重装兵として従軍しました。ソクラテスは大変貧乏であったと伝えられていますが、ホプリステースの装備には費用がかかるので、この時点では彼にはある程度以上の収入があったと考えられます。この戦いで彼は、落馬した弟子のクセノフォン(BC430年頃〜BC354年頃 軍人・著作家)を助けました。
BC423年、47歳の頃、アリストファネス(BC445年頃~BC385年頃 喜劇詩人)の喜劇『雲』が上演されました。その劇中にはソクラテスが登場しますが、そこでの彼は、道場を運営して弟子を持つ自然哲学者兼ソフィストであり、授業料を徴収して、正邪に関わりなく議論に勝つ弁論術等を教え、伝統的な神々を崇めず雲の女神達を崇める存在とされていました。この有り様は現実のソクラテスとは大きく異なると思われますが、その内容から、この頃すでにソクラテスは、善とは何か、美とは何か等、人間のことを問題として、人々を相手に哲学の議論を行っていたと考えられます。
BC422年、48歳の頃、ソクラテスはアンフィポリスの戦いに出陣しました。そしてBC421年、49歳の頃、ニキアスの和約により、デロス同盟とペロポネソス同盟との間に和平が成り立ちました。
BC415年、55歳の頃、その時アテナイの寵児となっていたソクラテスの弟子のアルキビアデスは、シラクサ征服を人々に吹き込み、全面的に戦争が再開されました。しかしアルキビアデスは、彼の一党が神を汚す行いをしたと訴えられた為に召喚されることとなり、その帰途の途中、敵であるスパルタへと逃亡しました。シケリア遠征は結果としてアテナイの敗北に終わり、このことがペロポネソス戦争の転換点となりました。アルキビアデスはBC407年、許されてアテナイに帰還しましたが、BC406年、部下が敗戦したことにより再び亡命し、BC404年、フリュギアで暗殺されました。彼は才能ある美男子でしたが、その性質は自由奔放で節度がありませんでした。
BC406年、64歳の頃、ソクラテスは初めて公職に就き五百人評議会(※72)から選ばれた五十人の委員の一人として、海戦において怠慢があったとされる10人の将軍を裁くこととなりました。そのとき執行部は違法な措置を取りましたが、委員の中でソクラテスだけがそれに反対しました。人々はどなり立てましたが、ソクラテス は投獄と死刑とを恐れず、国法と正義の側に立ってあらゆる危険を冒すのが良いと信じて行動しました。
BC404年、66歳の頃、アテナイはスパルタに敗れ無条件降伏をしました。スパルタの将軍リュサンドロスはアテナイに独裁制を敷くよう命令を出しましたが、その体制下においては、いい加減に人を殺すことや財産を奪うことがおおっぴらに行われました。ある時、ソクラテス の弟子であるクリチアス(BC460年頃〜BC403年 政治家、著作家)を首領とする30人僭主は、ソクラテスに対し、サラミスの人レオンを殺すために、他の4人と共にサラミスへ行って彼を連れてくるように命じました。しかし、ソクラテスは死を恐れず、一人だけ家へ帰ってしまいました。その政権はすぐに崩壊しましたが、そうでなければ、ソクラテスの命はなかったであろうと考えられています。クリチアスは寡頭派政権における過激派であり、厳しく激しい弾圧政治を行なった後、民主派の反攻にあって戦死しました。
BC403年、67歳の頃、アテナイに民主制が復活しました。そしてBC399年、70歳の頃、ソクラテスは「青年を腐敗させ、国家の信ずる神を信ぜず他の新しい神霊を信ずる」という理由で告訴され、その結果死刑となって生涯を終えました。
ソクラテスには、悪妻であったとも伝えられるクサンチッペという女性と、ミュルトという女性の二人の妻がいたと言われており、また、彼が死刑になった時には、17、8歳くらいのラムプロクレスという息子と、ソプロニスコス、メネクセノスという二人の幼児がいたと言われています。
ソクラテスは大変な醜男で、広い鼻腔の上を向いた大きな獅子鼻を持ち、両眼の間は離れ、禿頭で髭を蓄えていました。アテナイ人の常識では、身体の美醜は心の在り方がそのまま現れたものでしたが、彼らにとっては実に奇異なことに、ソクラテスはその原理原則に反し、醜男であるのにもかかわらず、美しい心の持ち主でした。
ソクラテスは、強靭な肉体と精神を持ち、暑さや寒さに容易に耐え、大量に飲酒しても酔うことがなく、疫病にも罹らず、性欲や食欲を厳しく制御し、記憶力に優れ、よく思索し、忍耐力がありました。
そして、よく自己を節制し、見た目の美しさや金銭・財産・地位・名誉等に無頓着であり、それらには価値がないと考えていました。また、人間は無に等しいものであると考え、風呂にもほとんど入らず、最小限の物資で容易に生活していました。
彼は、自信に満ちた表情で顔を上げ、横目で周囲を睨みつつ、マント一枚に裸足という格好で道を歩き、様々な困りごとや苦しみごとにも平然としていました。そのような彼には、何事かを考え始めると人通りを避けて所構わず立ち続けるという一つの癖がありました。そして彼はアゴラ等で、大抵は人と議論をしていました。
ソクラテスという人物は、表面上の醜さや貧乏、また、そのユーモアや奇行等の背後に、高い知力と深遠な合理性と神秘的な感覚を備えた、常に落ち着いていて物事に動じない、人並み優れた人格を有していたようです。
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※72. BC508年、クレイステネス(BC570年頃〜BC508年頃、政治家)によって設けられ
ました。各区ごとに30歳以上の市民50人が抽選で選ばれ、全部で500人の委員で構成され
ました。任期は1年で、2回まで再任が許されました。国政の最高議決機関である民会に上程さ
れる案件の予備審議等を仕事とし、行政・司法等の分野にも権限を持ちました。
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ではここからは、ソクラテスの思想そのものについて述べさせていただきたいと思います。
ソクラテスという人物は著述を行わなかった為、その思想の内容は彼の弟子であったプラトン(BC427年~BC347年、哲学者)や、クセノフォン等の著作から推測するしかないものですが、そのことをふまえた上で、ソクラテスの思想は、以下のようなものであったのではないかと考えられます。
先にも申しましたように、ソクラテスは最晩年において告訴されるのですが、その遠因として、彼には長年にわたって、アリストパネスをはじめとする多くの弾劾者がいたことがあげられます。彼らは猜忌(さいき)の念から「ソクラテスという賢者がいて地下と天上の事象を研究し、悪行を歪めて善行となす。」というように人々に説きました。このことは、「ソクラテスという自然哲学者兼ソフィストがいる。彼は神々を信じない者である。」と言っているのと同じことでした。そしてそれは、多数の人間が神々を信じていたその時代において、人々にソクラテスに対する大変よろしくない疑惑を持たせるものでした。しかしこれらのことは全て事実無根でした。さらに、ソクラテスがソフィスト達のように人を教育して謝礼を要求するという話も本当ではありませんでした。
ですが、ソクラテスが有名人であり、大きな名声と悪評を得ていたことは事実でした。そこにはそれだけの理由がありましたが、その理由こそ、ソクラテスの思想の核と言ってよいものでした。それはソクラテスが持つ一種の人間的智慧でした。
ある日、ソクラテスの友人であるカイレフォンがデルフォイの神託所(※73)におもむき、ソクラテス以上の賢者があるかと伺(うかが)いを立てたところ、巫女(みこ)は、ソクラテス以上の賢者は一人もいないと答えました。自分はけっして賢い人間ではないと思っていたソクラテスは、神託の意味について長い間思い迷いましたが、心を砕いて考え込んだ末、その神託の内容を疑って、自らそれが偽(にせ)であることを証明しようとしました。
ソクラテスはまず、賢者との評判があるひとりの政治家を訪ねて対談し、自分よりも賢い人物がいるということを明らかにしようとしました。しかし、実際に対談してその人物を詳しく調べてみると、その人物は、人々には賢者と見え、また自分自身もそう思っているけれども、実際にはそうではないという印象を受けました。ソクラテスは、そのことをその人物に説明しようとしましたが、かえってその人物と、同席者の多くの人達から憎悪を受けることとなりました。
ソクラテスは、そこから立ち去る時にこのように考えました。「私達は両者共に善とは何か、美とは何かについて、すなわち、善や美の定義について何も知ってはいないが、しかし、彼はそのことを知らないのに自分はそのことを知っていると信じており、私はそのことを知らないので自分はそのことを知らないと思っている、さすれば、それを理由として、私は彼よりも知恵において少しだけ優れているようだ。」と。このことを「無知の知」、すなわち、「自分が道徳・倫理の事柄について無知であるということを、合理的かつ明確に知っているという知恵」と言いますが、これこそが、ソクラテスが会得していた、当時における尋常ならざる知恵でした。
それからソクラテスは、前者以上に賢いと言われている人物を訪ねましたが、その結果は全く同じものとなりました。そしてまたもや彼は、その人物からも他の多くの人達からも憎悪されることとなりました。
その後もソクラテスは、順々に様々な人物を訪ね、多くの憎悪を招いて悲しんだのですが、しかし、神託の言葉は何よりも重んじられなくてはならないと思い、「自分は、神託の意味を明らかにするために、見識があるとされる全ての人に会うべきである。」と考えました。
彼は、政治家達の次に、詩人達の許を訪ねました。しかし、詩人達もそこに居合わせた人達も、たしかに多くの美しいことを語りはするのですが、またしても、政治家達と同じように美の定義については何らの理解もありませんでした。そこでソクラテスは、詩人の詩作は、美の定義を知っていることによるものではなく、預言者や巫女のように、持って生まれた素質とインスピレーションによるものであることを知りました。そして彼らが、その才能の故に、美の定義についても、世界で最もそれを知る者であると自任していることを知り、政治家達に対するのと同じ点で、すなわち、「無知の知」を有するという点で自分の方が彼らよりも優れていると思い、彼らの許をも去りました。
最後にソクラテスは、手工者達の許を訪ねてみました。彼らは、確かに自分達の技術については高度な知恵を持っており、その点においてはソクラテスよりも知者でした。しかし、彼らもまた、政治家達や詩人達と同じように、実際にはそれを持たない者であるのにもかかわらず、自身の有する技術上の知恵の故に、善・美等の定義についても最大の見識を持つ者であると信じていました。そこでソクラテスは神託の名において自らに問いました。「彼らのような職業上の知恵も道徳・倫理上の愚かさも持たずに、自身のあるがままにあるのと、彼らの持つところのものを二つとも持つのと、自分はどちらを選ぶか。」と。そしてソクラテス は、自らと神託とに対して、「自身のあるがままにある方が自分のために良い」と答えました。また彼はこれらの歴訪において、高い名声のある人達は全てと言ってよいほど、著しく「無知の知」を欠き、反対に、尊敬されることが少ない人々の方が「無知の知」において優れているということを経験しました。
以上の活動の結果、ソクラテスには多くの敵ができました。なぜならば、ソクラテスに自身の無知を暴かれた人々は、彼を激しく憎んだからです。そして、それと同時に、ソクラテスが対談相手の無知を論理的に証明する様を傍聴した人々の間から、ソクラテスは賢者であるという評判もまた広まっていきました。しかし、ソクラテスはこのように思いました。「本当に賢く物事の道理に通じているのは独り神のみである。神が、この神託を通して人間に知らしめようとしていることは、人間の知恵などというものは価値が無いか、ほぼ無いものに過ぎないということであろう。そして最も賢い人間というのは、私のように、合理的に、自己の無知を悟った者であろう。」と。そこでソクラテスは、神の意志に従って街を歩き回り、賢者と思われる者を見つければその知恵を厳しく吟味し、彼に善・美等の定義についての理解がなければ、彼が賢者ではないということを指摘しました。そしてその、神への奉仕という仕事があるが故に、他の仕事に力を向けるだけの余裕がなく、極貧の内に生活を送っていました。
また、家が裕福で多くの間暇(かんか)を持つ青年達は、ソクラテスの跡を追いかけつつその対話を面白がって聞き、ソクラテスに倣(なら)って自分達も他の人々の知恵を吟味し、その結果、社会には、自分は物事を知っていると思っているけれども、善・美等の定義については、ほとんどもしくは全く知らない人達が極めて多いことを発見しました。彼らの吟味にあった人達はソクラテスに対して憤慨し、「ソクラテスは青年を腐敗させる者である」と言い、また、全ての哲学者に対する非難を持ち出して「ソクラテスは天上と地下の現象について教え、神々を信じてはならない事、及び、悪事を曲げて善事となすことを教える」と言いました。ソクラテスの最晩年においては、このような弾劾者の数は多く、彼らは人々に対し強烈にソクラテスの悪口を言って聞かせました。
そして、ソクラテスに対して怒りを感じていたメレトス(生没年不詳、詩人)、アニュトス(生没年不詳、手工業者出身の政治家)、リュコン(生没年不詳、演説家)の三人はこのことに励まされて、それぞれが、詩人のために、手工者と政治家のために、演説家のために、BC399年「ソクラテスは犯罪者である。彼は青年を腐敗させると共に国家の信ずる神々を信ぜず他の新しい神霊を信ずる。」として、ついにソクラテスを告訴しました。
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※73. デルフォイは、ギリシア中部、パルナッソス山の南麓にあったポリスです。そこにはアポロンの
神殿があり、その神託は、古代ギリシアの人々にたいへん重要視されていました。
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神々を汚したとされたソクラテスに対する、甚大なる敵対心が大衆の間に起こっている中での裁判において、ソクラテスの生命は大変危ういものでしたが、彼は法廷においてこのように言いました。「人は、自身が最良と信じたものや、戦場で指揮者から指定されたものにおいては、危険を犯してでもそれを守るべきである。人は、恥辱をこそ心の内におき、死等のことは考えてはならない。数々の戦場において自身の持ち場を死に直面しつつ守った自分が、神から受けた持ち場であると信じている『真実の智を愛し求める者、すなわち、愛智者として生き、自己と他人を吟味すること』を死の恐怖から放棄するというのは奇怪なことである。人は、悪いものであるかどうかよく知らない死を、最大の悪い出来事であると確実に知っているかのように恐れるが、『無知の知』を自覚する自分は、人の死後の有り様を何も知らないし、知っているとも思っていない。しかし、不正を行うことと、優れた者に従わないことは悪であり恥辱であると知っている。私は、悪であると知っているものの代わりに、幸福であるかもしれないことを恐れたりはしない。」と。そして裁判官らに対して次のように言いました。「好き友よ、アテナイ人でありながら、最も偉大で最も名声高き市の民でありながら、多量の蓄財や名聞・栄誉のことのみを考え、自分の魂を出来得る限り善くすることについては、少しも考慮しないことを、君は恥ずかしいとは思わないのか。もし諸君のうちで、自分はそのことを気にかけていると抗議する者があれば、私は彼を厳しく吟味し、もし彼が「アレテー」、すなわち、「善・美・知恵・勇気・節制・正義等の徳」の定義を知らずして、それを知ると主張していると認識したならば彼の過失を責めるであろう。私は、会う人毎にこのような態度を取るであろう。なぜかといえば、それが私が神から命じられたことだからである。私が歩き回りながら忙しく働くところは、諸君の全てに対して、魂の完成よりも、身体や財産のことを気にかけないように勧告すること、また、アレテーが富から生じるのではなく、むしろ富をはじめとする人間にとって一切の善きものは、アレテーから生じることを伝えることに他ならない。」と。
ソクラテスは彼の言葉を借りて言えば、神からアテナイ市民に授けられた賜物であり、容易には現れない人物でした。彼は神から市にくっつけられた虻(あぶ)であり、巨大で気品はあるが少し運動に鈍い軍馬であるアテナイを覚醒させるために、それを刺す者、すなわち、その市民に付き纏(まと)って、知恵について吟味し、無知を自覚していないことを非難し、愛智に覚醒させることをやめない者でした。彼は、人間の最大の幸福は日々アレテー等について語ることであり、魂の探究のない生活は人間にとって意味も価値もないものであると考えました。そして、人々に対し、「自ら出来得る限り性質が良く尚且つ賢く適切に物事が判断できるようになるために、自分そのもののことを気遣う前に、自分に付属する富や地位や名誉等を気遣うことのないように、また、国家そのもののことを気遣う前に、国家に付属する立派な建物や華美な風俗等を気遣うことのないように、その他全ての場合もこの順序に従って物事を気遣うように。」と説得しました。彼は、国家における政治の仕事とは、市民が出来るだけ優れた者になるように様々に配慮することであり、その意味では、自分だけが、本当の政治の仕事を行っていると考えていたようです。
ソクラテスは、国家のためを思って活動していましたが、それはあくまでも私人としてであり、公人として活動することはありませんでした。そして、そのことには理由がありました。彼には幼少の頃より、彼がダイモニオンの声(※74)と呼んでいる神的な徴(しるし)、それが聞こえる時には常に彼の為さんとすることを禁止し、決して促進することのない声が、その心の中に聴こえて来ていたのですが、その声こそが、彼が政治に携わることを止めていたのでした。この超自然的現象の正体が何であるのかは分かりませんが、ソクラテスは、常にその警告に従って行動していました。
ソクラテスが裁判で死刑の判決を下された日、その神からの警告の声は、彼のそれまでの生涯においては幾度も聞こえて来て、彼が曲がった言動をしようとするのを常に阻止して来たのですが、彼が朝家を出る時も、法廷に来る途中も、法廷で弁論している際も、一度も聞こえることがありませんでした。そこでソクラテスはこのように考えました、「今日のこの事件において、ダイモニオンの声が私の言動を一度も阻止しないのは、それは今日私が被(こうむ)っていることが、きっと善い事だからである。なぜならば、私が運命的に出会おうとしているものが幸せなものでなかったならば、例の警告の声が私の言動を阻止しないわけがないからである。また、死とは、完全に無となるか、人が言うように霊魂が冥界へ移動するかのどちらかであるが、もし無となるのであれば、それは全ての感覚が消え夢一つ見ない永遠の熟睡状態となるのだから、大いなる利益を得る事となる。何故ならば、生涯においてこれほどの熟睡より以上に快い昼や夜というのは、ペルシャ大王といえども容易に数えられるほどしかないであろうからである。またもし霊魂が冥界へ移動し、そしてそこに人の言うように全ての死者が住んでいるのであれば、過去の英雄賢人達と交流し対談できることが、最大の幸福でなくてなんであろうか。」と。ソクラテス という人物は、筋金入りの合理主義者であると共に、神を深く信じる神秘家でもありました。
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※74. ダイモニオンとはダイモンの如きものという意味です。ダイモンとは、ギリシア語で超自然的霊
的存在者のことを表します。
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アテナイ人は毎年デロスへ船を送り、アポロン神に供物を献じていましたが、その聖船が桂冠で飾られてから帰港するまでの間は、アテナイにおいては死刑の執行が許されていませんでした。(※75)ソクラテスの友人であるクリトンは、その間にソクラテスに脱獄することを進めましたが、ソクラテスは、それが十分に可能であることを知りながら、「自分は、熟考の結果最善であると思われるような主義以外には内心のどんな声にも従わないことにしている。」と言って従いませんでした。そして、両者の間で脱獄という行動をとるべきか否かの対話が始まりました。「臆病でなければ、また、自身の金銭を惜しむことがなければ友人を救えたのに、君達はそれをしなかった。」というような、多衆からの不名誉な批判、すなわち、多衆の意見を気にするクリトンに対しソクラテスはこのように言いました。「身体のことについては多衆の意見ではなく、医者等の身体の専門家の意見を聞くべきではないか、また、それと同じように正や善や美のことについても多衆の意見ではなく、それらを極めた人や真理そのもののいうことを聞くべきではないか。」と。クリトンがそのことに同意するとさらにソクラテスはこのように言いました。「『大切なのはただ生きることではなく、善く生きることである。』という我々のかつての主張が今も変わらないのであれば、裁判の結果がどうであれ牢屋からの脱獄は不正であり国家に禍害を加えることになりはしないか。」と。そして、困惑するクリトンに対し彼は国法と国家を擬人化して、自分自身を相手にこのように語りました。「ソクラテスよ、いったいお前は何をしようとしているのだ。お前は我々国法と国家とを破壊しようとしているのではないか。お前は法に基づいて下された判決が一個人によって無効化されることがあっても、その国家が存続できると思っているのか。お前は我々国法と国家に対してどのような苦情があって我々を滅ぼそうというのか。お前は我々の保護の下に生みつけられ扶養され教育されてきた、そしてその有り様について何らの非難もない。にもかかわらず、お前は我々に属することを否認するような真似が出来るのか。お前は我々と同等の権利を持ち、我々がお前に加えようとすることはお前もまたそれを我々に加え返す権利があると思っているのか。お前はそんな事を正当であると主張するのか。祖国とは父母よりも祖先よりももっと貴び畏敬すべきであり、またもっと神聖であって、何よりも尊重されるものである。人は祖国を敬い、祖国が忍従を命ずるものは、それが投獄であれ従軍であれ、これに従わなければならない。人は戦場においても、法廷においても、またどこにおいても、祖国の命ずるところはこれを実行しなければならない、でなければこれに物事の道理を述べて改めさせなければならない。しかして祖国に対し暴力を用いることは罪悪である。ソクラテスよ、お前が脱獄を企むのは、我々国法と国家に対して正しくないことを企むからだという我々の主張は本当であろう。我々はお前をはじめとする全ての市民に、我々の持つあらゆる良きものを分け与えてきたが、それにもかかわらず、どのアテナイ人に対してもこのように宣言しているではないか。一人の市民が一人前となり、我々の実状をよく知った時、もしそれが彼の意に適(かな)わないようであれば、彼は全財産を纏(まと)めて自分達の植民地へでも外国へでも好きなところへ移住することを許されると。しかして、我々の実情を知りながらこの国に留まる者は、我々の命ずるところの全てを履行することを、その行為によって我々に約した者であると我々は主張する。そして、我々に服従しない者については、我々は、第一に生の付与者である我々に服従しないが故に、第二にその養育者にも服従しないが故に、第三に我々に服従を約しておきながら、服従もせず、かといって我々に非があった場合、説得によってこれを改めさせようともしないが故に、三重の不正を行う者であると主張する。」と。そしてクリトンに、「自分は以上のような声が耳の中で囁くのを聞くような気がする。」と言いました。それを聞いたクリトンはソクラテス に対し「僕はもう何も言うことはない。」と答えました。
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※75. ギリシア神話の英雄テセウスが、クレタ島の怪物ミノタウロスを討ち取って無事アテナイへ帰還
したことに感謝するため、アテナイ人は毎年デロス島へ船を送って、アポロン神殿に供物を献じて
いました。
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ソクラテスは、祖国である都市国家アテナイの「民主政治」というものを好ましく思っていたようでした。
それはペリクレスの言葉を借りると以下のような仕組みのものでした。
「我々の政体は、少数者の独占をなくした公平な政治形態であり、個人間の争いにおいては、法律によって全ての市民に平等な発言が認められる。しかし悪平等は退けられ、優れた才能を持つ個人は、たとえ貧しい家庭の出身であっても、人々が認めるその能力に応じて高い社会的地位を授けられる。
市民の生活は自由であり、他人の妬みや疑いの目を恐れることはない。誰かが一人だけの楽しみを求めたとしても、その隣人がそれを怒ったり、冷たい視線を浴びせることもない。市民はそれぞれの生活においてお互いを押さえつけたり懲(こ)らしめたりすることをしない。
しかし、公の事柄に関しては、市民は法律を犯す態度を深く恥じ、その時時の政治を預かる者に従って、法律を敬い、不当に侵された者を救う掟と、『不文の掟』という清らかで恥を知る心とを、厚く尊ぶ。」
このような政体を良しとしたソクラテスは、死刑執行当日、友人たちに見守られながら、上機嫌な様子で役目の男から毒杯を受け取り、それを無造作に平然とあおいで死につきました。最後の言葉は「クリトン、アスクレピオス(※76)に雄鶏一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」であったと伝えられています。
ソクラテスは、知識と議論のみの人物ではなく、「善」を実践せんとする「実践の哲学者」であり、生涯、そうあり続けていました。彼は、おそらくは「理性の要求」・「国法の遵守(じゅんしゅ)」・「ダイモニオンの声」という三つの行動原則ともいうべきものに従って日々を送り、最終的には、実際に、その「合理性」と「国法遵守の精神」と「神秘的思考」によって自身の死を克服したのだと考えられます。
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※76. アスクレピオスはギリシア神話における医術の神です。アポロン神の子でしたが、死者を蘇生さ
せてゼウスの怒りに触れ、雷霆(らいてい)に打たれて蛇遣い座の星になったと言われています。
この神様は蛇の巻きついたアスクレピオスの杖を持ち、その供物には雄鶏が捧げられました。ソク
ラテスの最後の言葉については、様々な解釈があります。
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ではここで、ソクラテスの実際の問答の有り様を、プラトンの著作『メノン』から意訳的に要約して紹介させていただきたいと思います。
ソクラテス:君はアレテー、すなわち、徳とは何であると主張するのか。
メノン:男のアレテーは国事を処理する能力を持つこと。女のアレテーは家をよく斉(ととの)えること。また、子供には子供の、年配者には年配者の、自由人には自由人の、召使には召使のアレテーがあります。
ソクラテス:蜜蜂(みつばち)にはいろいろな種類があるが、蜜蜂という点では皆同じである。それと同じように、いろいろなアレテーについても、それらには同じ相(すがた)、すなわち、本質的特性があるはずであって、それ故にその何(いずれ)もがアレテーであるということになる。例えば健康ということについては、その本質的特性は、男のそれも女のそれも同じであり、また、大きさや強さということにおいてもそうである。そしてやはりアレテーということにおいてもそうなのである。国を治める事も、家を治める事も節制や正義というアレテーによってする。老若男女を問わず、優れた者であるには節制と正義のアレテーが必要であり、故に、どのような人間のもつべきアレテーも皆同じである。あらためて質問する、アレテーとは何か。
メノン:人々を支配する能力を持つこと。
ソクラテス:それは子供や召使いのアレテーでもあると言えるだろうか。
メノン:そうとは言えません。
ソクラテス:君は支配する能力を持つことと主張するが、それには、正しく、不正にではなく、と付け加えるべきではないか。
メノン:付け加えるべきでしょう。正義はアレテーですから。
ソクラテス:それはアレテーだろうか、それともアレテーの一種だろうか。例えば円形というものがあるが、それは形の一種であってもただ単に形ではない。なぜなら他にもいろいろ形があるからだ。
メノン:正義の他にも勇気・節制・知恵・度量等、たくさんのアレテーがあるでしょう。
ソクラテス:それらの徳目を貫いているただ一つのアレテーは何だろうか。例えば、「形」とは何かといえば、すなわち、形の定義とは何かといえば、それは「立体がそこで限られるもの」である。
メノン:では色の定義とは何でしょうか。
ソクラテス:「その大きさが視覚に適合して感覚されるところの云々。」である。このようにメノンよ、アレテーとは何であるか、すなわち、アレテーの定義を言ってくれたまえ。
メノン:美しいものを要求してそれを獲得する能力を持つこと。
ソクラテス:美しいものは善きものであり、悪しきものを欲する者はいない。それ故にアレテーとは善きものを獲得する能力であるということに絞られそうだ。善きものとは健康であるとか富であるとかといったようなものではないか。
メノン:それに金銀や名誉等を得ることもそうです。
ソクラテス:メノンよ、それらを不正に獲得してもそれはアレテーだろうか。
メノン:そんなことはありません。
ソクラテス:それは悪徳だろうか。
メノン:そうです。
ソクラテス:そうすると、君のいう「獲得」には正義・節制・敬虔等、アレテーの何らかの部分が加わらなければならないようだ。そうでない場合には、たとえ善きものを獲得したとしてもそれはアレテーではないことになるだろう。
メノン:そうです。
ソクラテス:反対に、そうすることが正しくない場合には、金銀を獲得せずに貧困である場合にも、それはやはりアレテーなのではないだろうか。
メノン:そのようです。
ソクラテス:すると、どうやら正義を伴う行いは何でもアレテーであり、そうでない行いは全て悪徳であるということになりそうだね。
メノン:そうでなければならないように思われます。
ソクラテス:メノンよ、そうするとアレテーの部分を伴う全ての行為はアレテーであるということになってしまう。僕が要求したのはアレテーの定義を言ってくれというものだった。しかも僕は答えの手本の例をちゃんと与えた。人はアレテーの定義を知らないのに、アレテーの部分が何であるかがわかると思うかね。まだアレテーの定義を探求している途中であるのに、その部分を使って答えることによって、アレテーの定義そのものを他者に対して明らかにしようなどと思ってはいけない。では、もう一度最初から答えてもらいたい。アレテーとは何であると主張するのか。
メノン:ソクラテス、かねがね噂には聞いていました。あなたという方は何がなんでも自ら対話に行き詰まっては、他人もまた行き詰まらせずにはいない人だと。あなたはその容姿を含めて、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がします。シビレエイも近づいて触れるものを痺れさせるのですが、あなたが私にしたこともそれと同じように思われます。私は心も口も痺れてしまって何を答えてよいのやら、さっぱりわかりません。
ソクラテス:メノン、僕にもアレテーとは何であるかということはわからないのだ。だがそれでもなお僕は、アレテーの定義を君と一緒に探求するつもりだ。
ギリシアの本土は狭くやせているために、その生産性は低いものでした。それ故に、そこに住む人々は、ポリスという共同体において協調していかなければその生活が成り立ちませんでした。デルフォイのアポロン神殿に刻まれていたという「汝自身を知れ」という有名な格言は、「己の身の程を知れ」という意味であり、それは「市民は、国家における己の持ち分を守り、決して過剰に利己的な振る舞いをしてはならない。そうでないと本当にひどい目にあうぞ。」という警告であったのだと思います。そして、そうであるが故(ゆえ)に、当時のギリシアの人々は、「知恵」・「勇気」・「節制」・「正義」の「四元徳」を重んじたのだと思います。
ソクラテスの思想はアレテーを何よりも大切にするという点では保守的なものであったかもしれませんが、しかし彼はそれを「伝統的かつ重要な事柄であるから、ただ素直に守るべきである。」と考えたのではなく、それを自然哲学者の如き合理性によって徹底的に吟味し、その定義を明かにしようとしました。何故ならば、そうでなければ、確実にアレテーを実践することが出来ないからです。
ソクラテスにすればアレテーは善きものでした。それ故に、善き人間であるのは、アレテーによるものでした。そして、善き人間はまた有益な人間でもあるので、アレテーは有益なものとも言えました。
一般的に、人に対して有益なものは健康、強さ、美しさ、富等といったものですが、ときによってはそれらは、自身の健康を過信して不摂生から病気になる、性格の強さから無理矢理に物事を推し進めて自他に多大な損失をもたらす等、人に害を与えることがあります。つまりそれらのものは、魂が正しく用いてこそ初めて、人にとって有益なものとなります。
それと同じように、一般的に、魂における有益なものとされる節制、正義、勇気等も、実はそれそのものは一つの資質であって、それ自体では有益でも有害でもなく、そこに知もしくは無知を伴って初めて有益となったり有害となったりします。
これらのことから、人間にとって有益なものは魂を頼りとし、魂そのものの資質は知を頼りとするので、結局、有益なものは知恵であるということになります。そして、アレテーもまた有益なものである以上、「アレテーは知恵である」、すなわち、「徳は知なり」ということになります。
ギリシア人のいうアレテーとは元来、有用性、良さ、卓越性、能力という意味であり、医者は「医療のアレテー」、すなわち、医療の為の知恵があることによって患者を治療し、靴職人は「靴造りのアレテー」、すなわち、靴を造る為の知恵があることによって靴を造るのですから、有徳者たらんとする者は、「倫理のアレテー」、すなわち、倫理を実践する為の知恵があれば、常に有徳な行いが出来るはずです。そしてアレテーが知恵である以上、それは、医療や靴造りの技術のように、人から人へと教えることが可能なものであるはずであり、故に、どこかに倫理を実践する為の知恵を授ける教師がいてよいはずです。しかし、あらゆる努力をしたのですけれども、ソクラテスには「倫理のアレテー」の教師を見つけ出すことが出来ませんでした。
アテナイには、いつの時代においても、アレテーのある人物と誰しもが認める人達が存在していました。しかし、その人達は、例えば自分の息子達を、教師につくことができる範囲においては、しっかりと教育をほどこして誰にも劣らない者に仕立て上げることが出来たのですが、自分と同じように、倫理の実践者として優れた人物にするということは出来ませんでした。その理由は、彼らの持つアレテーは、国家や親等から授けられた様々な教育・知識と、神の恵みによって備わった「思惑の良さ」とも言える才能が合わさったものであり、彼ら自身も、自らの考えや言動の意味、すなわち、アレテーの定義については何も知ってはいなかったからでした。
以上のように、アレテーの定義を知ることは容易ではありませんでしたが、それでもソクラテスは、人が何かを知らないとき、それを探求すべきであると考える方が、知らないものは発見することも出来なければ、探求すべきでもないと考えるより、人はより優れた者になると、その言葉においても行動においても強く主張し、生涯、他者との対話によるアレテー の探求を続けました。
ソクラテスの思想の要点は、「人間は、倫理・道徳の根本とも言うべき『アレテーの定義』を全く知らないということを、タレス以降の自然科学的合理性によって徹底的かつ明確に認識し、そのことによってそれを強く愛し求める心を起こし、その上で、他の人々と共にその解明に向かって日々合理的な議論をしたときにのみ、その魂、すなわち、人格が真に向上する。そして、そのような、倫理的・道徳的に向上した市民の運営する国家こそが、真に発展し繁栄する。」というものです。
以上を持ちまして、私がソクラテスの思想の核心を探求した結果として得たところの知識等についての記述を終わらせていただきます。纏(まと)まりのない文章でありましたことは何卒ご容赦下さいますようお願い申し上げます。最後までお読み下さいましてありがとうございました。
あとがき.
大変痴(おこ)がましいことではありますが、私は様々な資料から推量するに、ソクラテスの求めた「アレテー の定義」とは、「市民の魂と、その属する国家をより向上させる能力」と言うことになるのではないかと想像いたします。もし、この想像が正しければ、現代における「アレテー の定義」とは「人類と、その文明を進化させる能力」と言うこととなり、人はそれに合致するものを「徳」と認識すると言うことになります。
現代社会は、「ニヒリズム」すなわち「虚無主義」の蔓延による倫理の低下、「新自由主義」に基づいた政策による長期に渡る貧困、そして地球の温暖化等の様々な問題を抱えていますが、私は、宇宙の巨大な運動と働きの中にあって、人類はその「徳」における、主に知性と理性を発揮してこれらの問題を解決し、その文明をカルダシェフスケール(※77)にある宇宙文明タイプⅠのレベルにまで進化させることが、正に自然なこと、すなわち、自ずからそうであることだと思います。
私は、ソクラテスの思想は、過去においてのみならず、現代においてもそして未来においても、人類にとって根本的に重要な思想の一つであると考えています。
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※77. 1964年、ニコライ・カルダシェフ(1932年~2019年 旧ソ連の天文学者)が考え出
した、宇宙文明のレベルを示す3段階のスケール。
タイプⅠ 惑星文明 惑星で利用できる全エネルギーを使用できる文明
タイプⅡ 恒星文明 恒星系で利用できる全エネルギーを使用できる文明
タイプⅢ 銀河文明 銀河系で利用できる全エネルギーを使用できる文明
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※現時点におきまして、当ウェブサイトは、日本の居住者の方のみを対象として運営いたしております。それに伴いまして、情報料のお振込みは、日本の居住者の方のみに限らせていただいております。
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参考文献:プラトン著 久保勉訳 『ソクラテスの弁明・クリトン』 岩波文庫、1927年
ヴィンデルバント著 河東涓訳 『ソクラテスに就て 他三篇』 岩波文庫、1938年
プラトン著 久保勉訳 『響宴』 岩波文庫、1952年
クセノフォーン著 佐々木理訳 『ソークラテースの思い出』 岩波文庫、1953年
アリストパネース著 高津春繁訳 『雲』 岩波文庫、1957年
田中美知太郎著 『ソクラテス』 岩波新書、1957年
ジャン・ブラン著 有田潤訳 『ソクラテス』 文庫クセジュ、1961年
プラトン著 加来彰俊訳 『ゴルギアス』 岩波文庫、1967年
中野幸次著 『ソクラテス 人と思想3』 清水書院、1967年
岩崎武雄・山本信編著 『新版 哲学概論』 北樹出版、1978年
ディオゲネス・ラエルティオス著 加来彰俊訳 『ギリシヤ哲学者列伝(上)』 岩波文庫、
1984年
プラトン著 藤沢令夫訳 『プロタゴラス』 岩波文庫、1988年
ステファン・C・ファインスタイン著 坂本輝世訳 『目で見る世界の国々11 トルコ』
国土社、1992年
ステファン・C・ファインスタイン著 熊谷哲也訳 『目で見る世界の国々13 エジプト』
国土社、1992年
プラトン著 藤沢令夫訳 『メノン』 岩波文庫、1994年
トム・ストライスグス著 小川洋子訳 『目で見る世界の国々21 ギリシア』 国土社、1994年
F.M.コーンフォード著 山田道夫訳 『ソクラテス以前以後』 岩波文庫、1995年
プラトン著 岩田靖夫訳 『パイドン』 岩波文庫、1998年
メアリー・M・ロジャース著 東眞理子訳 『目で見る世界の国々56 イラン』 国土社、2001年
メアリー・M・ロジャース著 東眞理子訳 『目で見る世界の国々60 イラク』 国土社、2002年
中村泰三編著 シグマベスト 『理解しやすい 地理B 【改訂版】』 ナツメ社、2003年
藤田正勝編著 シグマベスト『理解しやすい 倫理 【新装版】』 文英堂、2006年
愛宕元編著 シグマベスト『理解しやすい 世界史B 【改訂版】』文英堂、2009年
貫成人著 『図解雑学 哲学』 ナツメ社、2009年
友澤和夫(広島大学教授)監修 小田切英、神保裕子、鈴木しのぶ、吉田忠正、渡辺一夫執筆
『帝国書院 地理シリーズ 世界の国々2 アジア州②』 株式会社 帝国書院、2012年
兼子清(筑波大学教授)監修 北川清、吉田忠正、渡辺一夫執筆
『帝国書院 地理シリーズ 世界の国々3 ヨーロッパ州①』 株式会社 帝国書院、2012年
池本修一(日本大学教授)監修 池本修一、小田切英、北川清、鈴木しのぶ、吉田忠正、渡辺一
夫執筆
『帝国書院 地理シリーズ 世界の国々4 ヨーロッパ州②』 株式会社 帝国書院、2012年
大山修一(京都大学准教授)監修 北川清、指田千景執筆
『帝国書院 地理シリーズ 世界の国々5 アフリカ州』 株式会社 帝国書院、2012年
エマニュエル・トッド著 大野舞訳 『西洋の敗北 日本と世界に何が起きるのか』
株式会社 文藝春秋、2024年
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 「カルダシェフ・スケール」
http://ja.wikipedia.org>wiki>カルダシェフ・スケール 2024年12月25日
その他多数。
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